紺青の縁 (こんじょうのえにし)
時を学生時代まで遡れば、そこには幾星霜の春秋の変遷がある。しかし、それは同じ無地の白いカップに、同量の八分目が注がれて出されてきた。そして変わらぬ香りがする。
「不思議だねえ」
霧沢とルリはそれを味わいながら、そんな言葉を同時に発した。
今、二人はここに座り、四十年前の学生時代、そしてここで再会した三十年前のあの日から流れ去ってしまった月日の長さを実感している。
しかし、それはどこへ消えて無くなってしまったのだろうか。二人は今ここで、あの日あの時の続きをしているような錯覚に陥ってしまっている。
そんな時に、歳は七十歳位のマスターがカウンターの奥から「ルリさんか?」と声を掛けてきた。そして二人のテーブルまでやってきた。
ルリは、学生時代から霧沢と結婚するまでの約十年間、ここでアルバイトをしていた。そんな旧知の仲なのか、懐かしいのだろう。ルリとマスターは昔話しに花を咲かせている。
そんな途中に、「さあルリ、あれをマスターに渡したら、それが今日の目的だったんだろ」と霧沢は二人の会話に割って入った。「あっ、そうそう、そうだったわ」と、ルリは思い出したようだ。そして小脇に抱えて持ってきた小包を開き、「マスター、これ、やっぱりここで飾って下さらない」と一枚の絵をマスターに手渡した。
それは突然のことで、マスターは驚いた様子だった。だが、その絵を見てすぐに思い出したのだろう。
「ああこの絵ね、亡くなった宙蔵さんが描いたやつだね、確か〔青い月夜の二人〕と言う絵だったよな。そう言えば、洋子さんとよく二人で来てくれはったなあ」と懐かしがっている。
ルリはそんなマスターに、「宙蔵さんからこの絵を受け取った時にね、これが洋子との生きた証だよ、このジャズ喫茶店が一番似合ってるかなと宙蔵さんが仰ってたものですから。随分と遅くなったのですが、やっぱりここで飾って欲しいのです、よろしくお願いします」と改めて頼んでいる。
「ああルリさん、いいよ、元飾ってあった所、そうそうそこのカウンターの奥だったよね、そこへ戻させてもらうよ」と、マスターは快諾してくれた。ルリは「ありがとうございます、これで胸のつかえが一つ取れたました」と礼を述べ、ジャズ喫茶店では似つかわないほど頭を深々と下げている。
それを見ていたマスターは「ルリさん、もういいんだよ、あの時、霧沢君が戻ってきてくれたんだったよなあ、俺憶えてるよ、ルリさんの嬉しそうな顔を。それで今度は、サラリーマン社会で満身創痍(まんしんそうい)になった霧沢君が再び戻ってきてくれたんだね。……、そうだなあ、お祝いに、ルリさんに一曲贈らせてもらうよ」と言い出した。
霧沢はマスターのこんな話しを聞きながら、ぼんやりと思い出した。ここでルリと再会した時に、誰かが流してくれた一曲を。それは、ヘレン・メリルの哀愁のある歌声だった。
そうそう、[ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・トゥ(You'd Be So Nice To Come To)]が二人の間に流れてきた。
「ああ、あれは我々の再会を祝っての、マスターからのプレゼントだったのか」と、霧沢は三十年経って今はたと思い当たるのだった。
そして霧沢は、その時々には気付いてはいなかったが、いろんな縁と繋がってきた、そしてここまで生かされてきたのだなあと感無量となる。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊