紺青の縁 (こんじょうのえにし)
「霧沢君、俺わかるんだよ、仕事が忙しかったんだろ、いっつも家を放ったらかしにして、外を飛び回っていたんだろ。そんな霧沢君を、ルリさんはこんな曲を口ずさみながら、きっと待ってたんじゃないかなあってね」
マスターは霧沢にそう伝えて、奥へと消えて行った。そしてしばらくして、ジャズ喫茶店の薄暗い空間に、ビートの効いたメロディが流れてきた。
それは、ノラ・ジョーンズ(Norah Jones)の[ターン・ミー・オン(Turn Me On)]。
ルリはその歌声を全身に浴びながら、三十年前のあの時と同じように、「私、この歌が好きなのよ」とぽつりと霧沢に呟いた。
霧沢はユーチューブでこの歌を聴いたことがある。なかなか良い曲だなあと思い、この歌の歌詞を自分なりに和訳してみたことがある。そして今、三十年前のあの時の[ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・トゥ]と同じように、その[ターン・ミー・オン]の歌詞が頭を過ぎって行くのだった。
今、咲こうとしている花のように
今、暗い部屋で、消えている電灯のように
今、雨を待つ砂漠のように
今、春を待つ子供のように
私は、ずっとずっと、ここにいて、あなたを待っている
早く家に帰って来て……
私のもとへ
ルリはこんな歌を聴きながら、少し年老いた瞳にうっすらと涙を浮かべている。そして霧沢に小さく囁く。
「お帰りなさい、あなた」
ノラ・ジョーンズの歌声に、それは掻き消されてはいたが、確かにルリはそう口にした。霧沢は少し皺の入ったルリの手に、そっと自分の手を重ね合わせていく。
学生時代からいろいろな思い出が詰まったジャズ喫茶店。
霧沢とルリは、マスターから贈られた[ターン・ミー・オン(Turn Me On)]の歌声を背に受けながら、寄り添い合ってそこを後にしたのだった。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊