紺青の縁 (こんじょうのえにし)
霧沢が真由美を訪ねたのは、街角からコンチキチンと祇園祭のお囃子が聞こえてきていた夏の始まりの頃だった。
それから時節は移ろい、古都京都に本格的な夏がまた巡ってきた。蝉の声が寺社の境内から五月蠅く響き渡ってきて、暑さがより茹(う)だっていく。そして、その一年の盛夏を締めくくるかのように八月十六日がやってくる。
その日は五山の送り火。大文字、左大文字、妙法、舟形、鳥居形の火が夏の夜空に赤々と燃え上がる。
霧沢が定年退職をしたのは、この三月末。四月からルリとの第二の人生が始まった。しかし、過去の四つ出来事の真実が知りたくて、考えを巡らす日々が続いていた。
そして、霧沢の思考の中から漏れ落ちていた「誰か一人」、それは龍二の妻の真由美だった。そして会ってみれば、真由美は三十年前のチーママのマミだった。
真由美の口から語られた往時の出来事。これらで霧沢の疑問は氷解し、龍二の逮捕ですべての謎が解けた。
こうして、霧沢は遅まきながらも第二の人生へと踏み出す踏ん切りがつき、そろそろルリと一緒に絵でも描いてみようかと思っていた。そんな時に、妻のルリが話し掛けてきた。
「ねえあなた、八月十六日は五山の送り火でしょ、昔アルバイトしていたジャズ喫茶店へ行ってみたいの。その後、嵐山へと出掛けてみない?」
霧沢にとって、それは突然な話しではあったが、気持ちもすっきりしているし、また時間もたっぷりある。「ああいいよ、行ってみよう」と軽く返した。
そして八月十六日の当日、暑い盛りの日中に二人は家を出た。
まずはジャズ喫茶店を訪ねてみる。それは銀閣寺道から百万遍へと下る長い坂の途中にある。
三十年前の時のことだった。海外から日本へ戻ってきた霧沢は、桜もすっかり散り終わった頃に、久し振りに東山を散策した。その後、まるで春の風に運ばれるかのように、ふらっとここへ立ち寄った。そしてドアを押して薄暗い中へと入った。
そこで霧沢は八年振りにルリと再会した。この二人の今ある暮らしの出発点、それはここだと思えてくる。
そのジャズ喫茶店は、あれから少し改造されてはいたが、かっての雰囲気のままだった。霧沢とルリは、まるで学生時代にタイムスリップしたかのように、窓際の席へと当時と同じ歩調で進み、向かい合って座った。
以前と変わらず店内は薄暗く、目が慣れてくるのを少し待たなければならない。その間、ひんやりとした冷気が熱せられた肌を冷ましてくれる。
そして怠(だる)くて重いジャズのメロディーが響く中、二人は戸惑いもなく、お決まりの安いブレンドコーヒーを注文した。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊