紺青の縁 (こんじょうのえにし)
そして意外だ、その御婦人は別段の気構えをすることもなく、霧沢の横にさっさと座った。そして霧沢が持ち上げた上品なグラスに、泡が零れないように手際よくビールを注いでくれる。霧沢はこれのお返しにと、無言のままで御婦人が持つビール瓶を掴み取り、丁重に注ぎ返した。
それが終わると、御婦人はなぜか自分のグラスを霧沢のグラスにいきなりカチンと合わせた。そして「乾杯!」と声を上げ、それを気っ風良く一気に飲み干した。
霧沢は、なぜ今ためらいもなく、御婦人がこんな振る舞いをするのかがわからない。しかし、それにつられて霧沢もぐいぐいと飲み干し、グラスを空けた。そして一息吐いて、霧沢はまずはそろりと尋ねてみる。
「あのう失礼ですけど、鴨川青龍の女将さんですよね。と言うことは、花木龍二さんの奥さんの真由美さんでしょ?」
「まあ、そういうことに……、しときまひょ」
女将の返事が随分と曖昧だ。そして客と一緒だというのに遠慮することもなく、たけのこを一つ摘む。
そんな女将の仕草に少し驚きながら、霧沢は背筋を伸ばし、改めて折目高に挨拶をする。
「どうも初めまして、私、霧沢亜久斗と申す者です。実はちょっと女将さんにお伺いしたいことがありまして、今日、訪ねさせてもらいました」
そんな口上をじっと聞いていた女将は「うふふふふ」と笑い、そして一拍置いて小さな声で返す。
「私たち、初めてとちゃいますんえ、……、霧沢はん」
霧沢は女将のこんな言葉に、狐につままれたかのようになる。一方女将はそんな霧沢を悪戯っぽく睨んでくる。
「えっ、初めてでないって、一体どういうこと?」
霧沢は不可解で聞き返した。
「霧沢はん、もう忘れてしまいはったんやね。私たち、三十年前にお逢いしてんのよ」
女将はこうさらりと言ってのけ、霧沢のグラスにビールを注いでくる。
霧沢はそのグラスを持ちながら、独り言のように、「三十年前に、俺たち逢ってるって、うーん、どこでかなあ?」と呟き、もう一度目をそらさずに女将の顔をまじまじと見てみる。
「えっえっえっ、えー!」
霧沢は今、女将が誰なのかがわかったのだ。その驚きは尋常なものではなく、そのためかそんな単純な呻き声しか出なかった。
しかし、その後は、記憶の糸を手繰り寄せるかのようにあの時の場面が霧沢には蘇ってくるのだ。
作品名:紺青の縁 (こんじょうのえにし) 作家名:鮎風 遊