ノンフィクション/失敗は遭難のもと <後編>
早速、机上登山に没頭する。何処にする?何処の山に登る?分厚い山のアンチョコ(虎の巻とも言う)をひも解く。近場の冬枯れの里山は、いつもカラカラに乾燥していて、帰ってくると登山靴が土ぼこりで真っ白になってしまうほど。
明日はどんな風景を見せてくれるんだろう?余計な空想が次から次へと浮かんでくる。この時間が登山の楽しみの第一歩になる。目的の山は道志山系の「高畑山・倉岳山」に決めた。
ガイドブックには、<扇山がハイカーで賑わうときでも、桂川を隔てて向かい合っているこの山々は静かなもの。道志山塊では一番親しまれている山で、道標も要所にあり、藪も少なく、のんびりハイキングに最適>と。
明けて翌朝、八高線・東飯能駅を5:42発の電車に乗った。多分一番か二番電車だったと思う。朝の早いのは慣れっこだった。どこを見ても雪・雪・雪、雪国みたいだ。心は逸っていた。まだ誰も足跡を印していない処女雪の登山道を歩きたい。
八王子・高尾で乗換え、中央線・鳥沢駅に7:11着。もうその時間になると、雲ひとつない真っ青な青空に朝日が昇り、雪景色はキラキラとダイアモンドのように輝いていた。
ところが、町中の道路はいたって歩き難かった。なまじ車が通った後は凍ってツルツル、わだちのデコボコが悪路と化していた。こんな町中で転倒なんか・・。
人家が無くなり、小篠貯水池に着く。土手上に出て振り返る。桂川の向こうに輝く雪をまとった扇山が、いかにも広げた扇を逆さにしたように聳え立っていた。自分が思い描いていた通りの景観だった。満足だった。
が、道はそこで途絶えていた。身の丈を越えるような密藪に1m近い雪が積もり、壁のようになって完全に登山道を遮断していた。一瞬『敗退』の2文字が頭を掠める。
この場面の体験・記憶は、拙著/SF小説『異説・人類の起原』の導入部に引用・記述しています。
空を仰ぐと、雲ひとつ無い青空がひろがっている。こんな絶好の好天で、おめおめ引き下がるのか? 俺はそんな軟弱な男だったのか? 自らをののしりながらも懸命に打開策を考えた。
そして腹を決めた。今日は出番が絶対に無いと判断して、ザックの一番底に収納した雨具を取り出す。雨具の上の装備も全部外に出さなければならなかった。
雨具を装着、完全防備の態勢を整え、雪の壁に突撃を敢行した。5mか10mか皆目見当がつかなかったが、見事障壁を突破した。そこは深閑と静まり返り、傾斜を増した針葉樹林があった。
それよりなにより目の前に自分が強く望んだ、まだ誰も足跡を残していない、まっさらな処女雪の山道が伸びていた。小さな小鳥とか、小動物らしき足跡だけだった。自分が今、その雪を蹴散らし足跡を残している。振り返ると、いかにも乱暴者が乱雑に歩いたような跡が残されていた。
痛快な気分で勇躍高みを目指す。と、異様な臭気に気が付いた。豚小屋のような・・、「出たぁ」。左手の崖上から雪を蹴散らし、山道を横切り、右手の沢に降りた踏み跡があった。
瞬間「イノシシ」と判断した。しかも臭気の強さから、まだほんの一瞬前に通過したらしい。鉢合わせしなくて幸いだと思った。でも、用心に越したことはない、周囲に気を配りながら進む。
雪をかぶった針葉樹林は、いつもより薄暗い感じがする。そして、強烈な木漏れ日があちこちに斜めに射し込んでいた。ふと、木漏れ日の中に微かなきらめきに気付いた。「なんだ?」
それは細かい光の粒がキラキラと舞っているのだ。ダイアモンドダスト? 樹林の天井を見上げると、樹木の先端に積もった雪が太陽に温められ、あちこちからバサッバサッと崩れ落ちていた。そして細かく砕け散った雪の粒が、舞い落ちながら木漏れ日の中で輝いていたのだ。
こんな光景に出会えるとは・・、しばし茫然自失、その幸運に我を忘れて立ち尽くしていた。これだけでも出てきた甲斐があったというもの。ラッキー感で嬉しさ倍増。
絶景場面に、雨具を脱ぐのも忘れてしまった。まぁ、防寒具代わりになるし、いまさら脱ぐのも面倒くさかった。時間が経つにしたがい、天井からは雪解けが雨粒になって降り注ぐから、好都合でもあった。
かなり高度を稼ぎ樹林帯を抜け出すと、一気に展望が広がった。「やったぁ!」夢にまで見た雪景色だった。中央線沿線の町並みと、その背景の山並み・・・。夢や写真とは実物は格段の差があった。
景観に目を奪われ、足元がお留守になっていた。アッと言う間に後ろに足を滑らせていた。宙に浮いた身体は膝から落ちていった。「痛ッ!」左膝に痛みが走った。手袋で雪を掻き分けると、道の真ん中に岩角が突き出ていた。
幸いにも膝をかすった程度のかすり傷で済んだ。もし、岩にもろに膝を打っていたら・・、考えるだに恐ろしくなった。膝のお皿を粉砕して歩けなくなる。麓まで雪の中をどうやって戻るんだ?
さすがのO型も真っ青になった。そしてO型、気分転換にお茶休憩を思いついた。携帯ポットのお湯でドリップコーヒーを淹れる。馥郁たる香りがあたりに立ち込める。雪景色とコーヒーで再び幸せな気分に浸れた。
半ば朽ちた掘立小屋を過ぎると、再び整然と植林された杉林の中に入る。そこでまた進退が、と言うより前進が出来なくなった。等間隔に植樹された杉林、ほぼ30度ほどの斜面、その斜面が平らな雪で覆われていた。ジグザグに登るはずの道が見えない。
2度目の敗退・撤退の危機、今度は強引の突破も出来ない。手も足も出ない状態、しばし立ち尽くした。そして気を取り直し、周囲をじっくり観察する。「あった!」ヒントを見つけた。杉の枝に結わえた赤テープ、「赤エフだ!」。登山道を示す道しるべ。
力付くの後は、知能で解決。元気を取り戻し、雪を蹴散らし一直線に目印を目指す。雪が無ければ、下草が邪魔をして歩き難いが、雪の上なら場所を選ばない。もう道は必要なかった。
最初の目印に着く、次の赤エフを探す、これを繰り返す。振り返るとでたらめなラッセルが残されていた。「次に来たハイカーはビックリするだろうなぁ」なんて、無責任なことを考えていた。
無事に杉林を抜け出す。あとはU字形に窪んだ山道が続いていた。そこはもう尾根上に出ていた。「高畑山」山頂は近い。
この日出会った人は、猟犬を連れた男性と、登山道でない斜面から現れた男性一人、それだけ。汗っかきの自分は、雨具を着たままで汗びっしょりになっていた。そのくせ手の先・足の先は、寒さでギンギン痛い。そんな暑・寒の責め苦も、雪山を歩く醍醐味のほうが何倍も楽しかった。
その後のスケジュール表に、赤字で書き込まれたメモが極端に少なくなっている。「高畑山」11:00着・11:10発/雪が旨い。⇒穴路峠11:42着・11:45発 ⇒ 「倉岳山」13:00着・13:10発/強風で寒い。
降りは早かった。半ば滑り落ちるように、ズルズル走り降りる。勿論、新雪だからアイゼンなどまったく必要ない。尻セードも初体験した。だから、この日の万歩計の歩数16,200歩は正確な歩数ではないと思う。
作品名:ノンフィクション/失敗は遭難のもと <後編> 作家名:おだまき