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ノンフィクション/失敗は遭難のもと <後編>

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第6話 また道間違え [木曽駒ケ岳]

  20代から40代前半まで約20年間、西多摩郡瑞穂町の都営住宅に住んでいた。そのご近所に、当時700戸ほどあった住宅の自治会会長を務めたこともある、ベテランの登山家が居た。

  自分も子供の成長にしたがい、PTA役員から自治会役員にしゃしゃり出るに及んで、その方と交流する機会を得た。先輩は住宅内で「山登りの会」をやっていた。それまでひたすら単独行を貫いてきた自分が、グループで歩くようになるきっかけとなった。

  それまでの神風登山とはまったく違う、楽しい山歩きが始まった。大自然の中を歩きながら、山に関するいろいろなことを伝授された。まさに目から鱗が落ちる思いがした。

  40代半ばになって、都営住宅脱出の最後のチャンスが巡ってきた。飯能市に終の棲家(その頃はそう思っていた)を見つけて転居した。先輩は立川市へ住居を移した。離れても山の付き合いは続いた。

  しかし、先輩との年齢差は20歳くらい離れていたと思う。だんだん山に登れなくなっていった。グループを率いて山の麓まで行き、山頂までの注意点を僕たちに教え、ご自身は帰りを待つと言い出した。

  そんな年の暮れ、12月になって先輩から電話が入った。「無性に雪山が観たくなった、一緒に行ってくれないか?」と言う。自分に断る理由は無かった。二人だけの山行が決まった。

  夜行日帰りで「中央アルプス・木曽駒ケ岳」に行くと言う。暮れも押し詰まった26日(土)深夜、新宿駅のホームで先輩と合流する。今は廃止されて運行していない、0:01発各駅停車最終列車に乗車する。立川からでは座れないから、始発の新宿駅まで先輩も来る。

  なにしろ登山客には人気の列車で、新宿で超満員になるほど。発車間際にホームに下りると、座席に戻れないくらいの混み方だった。この列車は途中駅で、翌日の始発列車になるから面白い。

  その頃の夜行は当たり前、でも自分は眠れないタイプ。この日も眠れたのか眠れなかったのか分からない。上諏訪駅5:57着、飯田線6:30発、駒ヶ根駅8:12着、9:00発のバスを待つ間に朝食を食べる。

  正月が近いので、搗き立ての餅があったので、焼いて海苔を巻き弁当箱に入れた。冷めると堅くなるので、上下をホッカイロで挟んだ。でも、ホッカイロは不発で結局餅は堅くなっていた。

  そうだ、最初にお断りしておこう。今回の失敗談は外面的な失敗というより、むしろ内面的な精神の未熟さが引き起こしたアクシデントと申し上げておこう。

  この日は快晴の朝だった。9:00発のバスでロープウェイ駅に9:53着。駅売店で注連飾りが格安で売っていた。山登りに来て、お買い物したの初めて。注連飾り(大)1,100円、息子の車用が350円。荷物が増えた。

  ロープウェイ10:00発、山頂駅10:10着。千畳敷カールは真っ白な雪景色だった。見上げると宝剣岳が雪をまとい、居丈高に聳え立っていた。カールの入口にある駒ヶ根神社の小さな鳥居が、雪に埋まり頭の部分だけ出している。カールのお花畑は今、白一色である。

  先輩は宝剣岳と対峙して、しばし動かなかった。「雪山をもう一度観たい」という念願を今果たしていた。自分は掛ける言葉も無く、そっと付き添っていた。

  しばしの間をおいて先輩は「あなただけ木曽駒に登ってきてください。私はここのホテル千畳敷で風呂にでも入って待っていますから」と言った。もう途中棄権は当たり前のこと、言われるままにアイゼンとスパッツ、サングラスを着けて出発した。

  でも、一抹の不安があった。突然誘われて、あっさり受諾はしたものの、コースは一切先輩任せ。自分に木曽駒に関する予備知識は何も無かった。

  先輩は口頭でコースを説明してくれた。「カールを横切り、傾斜が増した斜面を登る。その壁を乗っ越せば、山頂まで一直線で行ける。迷うところなどありません。私にはもうあの壁を登りきる力はありません」と。

  カールの積雪は1メートル以上あったか?すでに先客がトレースを残してくれている。その踏み跡を忠実に辿ればいいだけだ。ただ、人を待たせているという意識が、早く戻らなければというプレッシャーになった。「早かったですねェ」とも言われたい。

  後で知ったのだがこのルート、宝剣岳の断崖絶壁から落ちる雪崩の危険地帯だった。12月はまだ新雪期、その心配は無かった。トレースは徐々に傾斜を増して、乗越浄土まで八丁坂と呼ばれる急斜面になる。

  この八丁坂、夏道ならばジグザグに折り返して登って行くが、雪の上のトレースはほぼ一直線に登っている。見上げる斜面は、まるで垂直な壁のように聳え立っている。息せき切って白い壁にアタックする気分。ただ意外と雪の上は歩きやすい感覚があった。

  それでも気息奄々、やっとの思いで坂を登りきり、平らな乗越浄土になる。見るとT字路に案内板のような標識があり、2人組の男性がそれを見ていた。ここで自分の悪い性癖が出てしまった。なんともお恥ずかしい次第である。

  いちいち挙げればきりが無いが、まず初対面の人に対する人見知り、会話が面倒くさい、話し下手。これだけでもお分かりいただけるでしょうか。先輩に『一直線』と言われたのも忘れて、標識の手前からさもコースを熟知している振りをして、右に曲がってしまった。なぜこんな行動をしたのか、今もって自分でも説明が出来ない。

  その道は和合山から伊那前岳に至る道だった。かなり歩いて自分にも間違いが分かった。でも、このまますごすごと戻れない、何か収穫がないかと周りの風景を一望する。とすると、今まで背を向けていた宝剣岳が、峻峰を天に尖らせ左右に尾根を伸ばして、まるで怪鳥が羽を広げ羽ばたいている姿そっくりに展望出来るではないか。

  夢中でカメラのシャッターを・・・、なんとこの期に及んで電地切れで、カメラが作動しない。岩陰に入り寒風を避けながら、電池の交換をする。が、手袋を脱いで素手での電池交換は、手が寒さでかじかんで思うようにいかなかった。

  なんとか作業を終了し、宝剣岳の雄姿をカメラに収めて、帰路に着いた。その時の写真は四つ切にプリントして、今でも他の山岳写真と一緒に、居間の壁に飾ってある。そして写真を見る度に、ほろ苦い思い出がこみ上げてくる。

  もうひとつ、乗越浄土からの八丁坂が、登りより降りの方が何倍も怖く感じた。自分ながらよくこんな壁を登ったもんだと・・・。

  ホテル千畳敷で落ち合った先輩は『ずいぶん早かったねぇ』とひとこと。正直に道を間違えたと告白した。ほろ苦い失敗談の一説でした。

  昭和62年12月27日(日) 前夜発・日帰り    ー第6話・終ー


第7話 雪山遭難?[高畑山~倉岳山]

  この年(昭和63年)の冬が終わろうとする、2月の末になって関東地方に大雪が降った。その翌日はなんと日曜日で、朝からピーカンの大快晴になった。

  その頃は、宮仕えの身で休日は日曜日だけ、とても遠方の雪山なんかに、行きたくても行けるわけがなかった。前日の夜、降る積もる雪を前に胸が高鳴っていた。『よし、明日は雪山に行くぞ!』