白石さんと黒井くん
彼へとそう言うと、彼は腰まであるあたしの長い髪をバスタオルでやさしく拭きながら「汚いものが全部溶けて消えてしまったんだよ」と言ってくれた。さっきまで肺の真ん中にあったもやもやがもうなくなっている。彼が言ってくれたみたいにあたしの中の汚いものが溶けて出て行ってくれたのかもしれない。
「あったまった?」
「うん」
「そう、ならよかった」
彼は満足そうにそう言って、今度は棚からドライヤーを取り出して来た。そしてあたしの髪を丁寧な手付きで乾かしてブローしてくれる。濡れたままのワンピースはストーブの熱を吸ってあたたかい。彼の細く冷たい指はとてもきれいな動きで髪を撫でてくれる。その手付きに乾いてくれた涙がまた零れてきた。すべすべした膝におでこをくっつけて泣いていると彼がドライヤーを止めて、背中を撫でてくれる。顔を上げると彼はあたしの目の前に移動してくれた。その髪は濡れたままで、それなのにまだ瞳は三日月でいてくれた。
「どうしたの?」
「泣いてるの」
「どうして?」
「間にあわないから」
「…〆切は明日でしょ?」
「うん」
「明日の何時なの?」
「明日の五時」
彼は壁に掛かっている時計をちらりと見やってからまたあたしを見た。
「まだ間に合うよ」
「間にあわないのよ」
「どうして?」
「だってもう六時だもの」
夜はまだあけず、窓の向うは闇が広がっている。
「まだ十一時間もあるよ」
「間にあいっこないわ」
「大丈夫」
「だって、あたしもう何も描けないの、線の一本も、描けないの」
「大丈夫だよ、僕が手伝うから」
彼の瞳は嘘なんてついていない。まっすぐにあたしを映している。
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
「でも無理よ」
「大丈夫、ひとつずつ終わらせよう。やらなきゃいけないのはどれなの?教えて」
彼の声はとても穏やかで、さっきまで焦ってばかりいたあたしの心臓もつられて穏やかになってくる。あたしはキャンパスを指差して、これからしなければならないことをばらばらの順番で彼に告げた。
「うん。じゃあ、まず筆を持とうか」
「…」
「筆は持てるかい?」
「…持てるわ。それくらいなら出来る」
「じゃあやってみて。」
薄いワンピースは熱を吸って、熱いと思うくらいの熱を伝えてくれる。その温度に生かされるようにあたしは立ちあがった。
緑と黄色の絵具が付いた筆を持ち、今度はそれを水で洗ってみる。
「で、線を引くんだろ?」
「そう、こことここに、線を引かなきゃだめなの」
「じゃあ、まず、ひとつの線を引こうか。出来るかい?」
「…やってみるわ」
彼の言った通り、まずはひとつの線を引いた。何度も深呼吸して集中力を高めて、やっと筆をキャンパスに付ける。もう寒くないからか、手は震えることなく思った通りの線が引けた。
「綺麗に引けたね」
「そうね」
「休憩する?」
彼は「紅茶でも淹れようか」と提案してくれた。アールグレイの紅茶が飲みたくて、彼にそう告げると彼は淹れてあげるよとキッチンの方へと歩いていく。彼が紅茶を淹れるまでの間にもうひとつの線も引いてしまおうとひとりキャンパスに向き合う。彼が水を淹れた白い薬缶を火にかける音が聞こえてくる。コンロの青い火が美味しい紅茶を飲む為のお湯を作ってくれている。その音は優しいのだと思い、あたしはもうひとつの線を引くために瞼を開けた。
「もうひとつの線も引いたんだね」
「そうよ」
あたしは少し自慢げにそう言った。彼はあたしのその態度にくすりと笑いながらスコーンまで用意してくれた。温かな湯気とその甘い香りに心の中に春が来てくれたみたいだった。無言でスコーンを齧って紅茶を飲む。食事の時はいつもいつも無言なあたしたちは、無駄な動作をひとつもすることなくスコーンと紅茶を胃へと飲み込んだ。
「さぁ、次は何をするんだっけ?」
白い皿を片付けながら彼はそう問い掛け、私はもう一度筆を取り、紅い絵具をチューブからぎゅうと絞り出した。その筆がキャンパスを走るのを彼は黙って見つめている。あたしはまるで音楽を奏でるかのように筆を走らせてキャンパスで歌った。
他の色も欲しくなったけれど今のあたしには紅しか自由に出来ないのだと急に気付いて悲しくなった。それでも彼が「いい紅だね」と言ってくれたから何とか泣きださずに済んだ。
それからは額縁を何とか組み立てたり、綺麗に合わさるように額縁を調整したり、たまに歌って、泣いて、食べて作業を進めた。
「あとはカメラに収めれば終りなんだろう?」
「そうよ」
「あと少しじゃないか」
「そうね」
「ほら、泣きやんで。カメラは此処だよ」
彼の手の中にあるゴツゴツとしたカメラを受け取ってキャンパスの前に立つ。背後の白い壁にも絵具が飛び散って、それはまるで絵のバックグラウンドのように思えた。シャッターを切る瞬間には、今までこのキャンパスの前で泣いたり呻いたり怒ったりした日々を思い出して苦しくなる。嗚咽を漏らしながらカメラを構えたまま立っていると、そのカメラから覗いた世界に彼が入ってきた。キャンパスの隣りに並んで、静かな瞳であたしの絵を眺めている。不意に顔をカメラの方へと向けて彼は「とてもいい絵だね」と言ってくれた。
「まだ全然なの。表現出来ないの」
「うん、表現出来ないってことが表現出来ているよ」
「それはいいことではないでしょう」
「でも悪いことでもないよ」
「…そうかしら」
「そうだよ。ほら、支度して大学に提出しにいこう」
彼は車を回してくると言って部屋から出て行ってしまった。そのままの服で外に出るのは止めた方がいいと言われたから薄汚れてもう白いとは言えないワンピースを脱いで箪笥の中から白いニットのワンピースを取り出す。そのワンピースを着てくるりと部屋を見渡すと、部屋の真ん中にさっきまで描いていたキャンパスがあった。白い床と壁はもう色んな色でぐちゃぐちゃで、ベッドのシーツにも黄色と赤の絵具が散っている。その曲線はとても綺麗に思えたからしばらくシーツを洗濯するのはよそうと思いながらあたしはその大きなキャンパスを抱え上げた。そのキャンパスはとても重く、まるで赤子のようだった。
彼の運転で大学まで向かう。いつの間に雪が降ったのか、一面真っ白で他の色は中々見えなかった。あたしは白が好きだから雪も好きだった。雪を見ていると心が段々と弾んできて、ボールみたいになる。ぴょんぴょんと色んなところを飛び跳ねるのだ。ふんふんと今思いついた雪の中に顔を突っ込む犬の歌を歌っていると、車は大学の門の前で停止した。普段は車を使って学校に来ない彼は、通行許可書を持っていないため車で構内には入れないという。あたしは此処まで送ってくれたことの礼を告げて、ひとりキャンパスを抱えて灰色の大学へと向かった。転んで絵が雪みたいに真っ白になったらどうしようと思っていたけれど、まだ誰も歩いていない真っ白い雪は踏み固められていない為、転ぶことはなかった。