白石さんと黒井くん
白石さんと黒井くん
部屋の真ん中に置いてあるキャンパスを睨みつけて、唇を思い切り噛みしめる。痛みを無視してずっとそうしていると乾燥した唇は簡単に裂け、微かな鉄の匂いが鼻腔に届いた。床には沢山の絵具と筆、その他の道具が転がっていて足の踏み場はないに等しい。白い床の上にまるで唇から流れているのと同じような赤が散っていて、その隣には黄色やら青やらが散らばっている。ふと自分の足に視線を落とすとあたしの右足の甲には紫色と青色が、そして左足の脛には黄色い線が走っている。きっといつの間にか付いてしまったのだろう。それらはもう随分と乾燥していて触れるとパラパラと崩れて行く。その粉が真っ白い床の上に落ちる微かな音を聞いて、ぎゅっと強く目を瞑った。痛くなるほどぎゅっと手の平を握りしめて、深呼吸をした。おちつけおちつけと頭の中で繰り返しても、全然落ち着かなくて、心臓より少し右側の肺と肺の間が痛い。もやもやが詰まって、窒息してしまいそう。
「ふー」
小さいく息を吐いてあたしは立ち上る。床の上には絵具の細かい粉が落ちていて、足の黄色は半分もなくなっていた。
壁に掛けられている時計が渇いた音で時間を刻んでいく。その針先にある数字を見た瞬間、無意識に唇を噛んでいた。
もう無理だと思った。だから死んでしまおうと思った。
痛いのは嫌いだから痛くない方法で死にたいと思ったけれど知識があまりにも少なくて、どうすれば痛みを感じないように死ねるのか分からない。首を吊るには道具が必要だし、祖母に「身体は大事にしなさい」ときつく言われて育ったからか、自分の体に傷をつけることにはとても躊躇ってしまう。ピアスの穴でさえ、四年間悩んだ挙句、結局あけていないのだ。どうして首や腹や胸を傷つけられるだろう。高所恐怖症のあたしには飛び降りるなんて無理だし、方法が思いつかない。そもそもそういう死に方は痛いに決まっている。
唐突に、風邪を引こうと思った。風邪をひいて風邪をこじらせて死んでしまおう。苦しいかもしれないけど、首を吊ったり、自分の体を傷つけたり、高い所から飛び降りたりするよりは向いていると思った。あたしはきっと風邪をこじらせて死ぬ運命なのだ。一度そう思うと、そうするべきな気がした。これは必然だ。今、死ななければ。
あたしは羽織っていたロングカーデを脱いで、部屋の窓という窓を全部開けた。そして色んな色の絵具が付いた白いワンピースのまま浴槽へと向かい、躊躇わずに蛇口をひねる。大きな粒がシャワーのノズルから浴槽へと勢いよく降りそそいでいく。あたしは浴槽の中に身を滑り込ませて水が流れて行かないように栓をした。水は目の前の水面に勢いよく降りそそいで、あたしの前髪を濡らした。水はゆっくりと溜まっていき、ワンピースはどんどんと水を吸って行く。じっと体育座りをしながら、吐いた息が白から透明になっていく様子をずっと見ていた。
あたしの長い髪はだんだんと水の中に溺れて行く。黒い髪が水の底でくるりと弧を描いていて、まるで眠るように死んでいるみたいだ。
あたしのまるくて白い膝に顎を乗っけると、無意識に唇が開いて歯がカチカチと鳴る。まるで楽器みたいにカチカチとリズムを取っていて、それが間抜けなような気がした。今から風邪を引くのに、楽器をひくなんてとても間抜けだ。
カチカチカチという音と、大きな粒が水面を叩く音が合わさってまるで音楽を奏でている気がしてくる。あぁ、これは音楽だ。あたしが死んでいくための音楽だ。これが終わるとあたしは死ぬのだ。そう思うと、もっと奏でてもいい。だってこれはあたしが最後につくるものなのだ。今まで勉強してきた絵でも写真でもなく、音楽があたしの最後なのだ。
水面はずんずんと膝小僧まで近づいて来る。あたしは膝小僧から顎を離す気はないからこれ以上水が増えれば水の中に沈んでしまう。そうすれば死因は窒息死かもしれない。窒息はきっと苦しいけど、でもその前に寒がりな心臓が止まってくれるかも知れない。心臓が大人しく止まってくれることを祈って目を瞑る。歯がカチカチ鳴って、水面に散った水滴が鼻の頭をかすめる。身体の表面は冷たいのか熱いのか分からないほど皮膚の感覚がマヒしているのに、骨だけがまるで氷みたいに酷く冷たい。あたしの身体が氷になってしまったのかもしれない。そんなことを考えて音楽を奏でているとお風呂場のドアが開く音があたしの音楽に混ざった。
「何してるの?」
その声に思わず閉じていた瞼を開く。ふとドアの方を見ると真っ黒い服に身を包んだ黒井くんが立っていた。何かを喋ろうと思っても歯が噛みあわさらなくて言葉がうまれない。彼は黙ったままのあたしを見つめてしばらくその場所に立っていた。あたしは何にも喋れなくて、カチカチとまだ音楽を続けていた。しばらく黙っていた彼は水浸し風呂場に靴下のまま入ってくる。靴下までまっ黒の彼はそのまま何も話さずに突然あたしと同じように浴槽へと坐り込んだ。シャワーのノズルから降りそそぐ水滴は彼を直接濡らして行く。彼は何にも喋らなかったし語らなかった。ただ黒い瞳であたしを見つめているだけだ。彼の瞳は何も語らない。ただ鏡みたいにあたしを映している。彼のダウンジャケットが水を弾いてあたしの顔に跳ねる。唇を開くと、白い息が彼の顔へとかかる。
「さむくないの?」
「さむくないの?」
「さむいよ」
「さむいよ」
「じゃあ出たら?」
「じゃあ出たら?」
カチカチと歯を鳴らして、あたしと彼は黙っている。不意に彼の瞳が優しく細められて、あぁ、この瞳が好きだと思った。彼の瞳が描くカーブは本当に優しくて、三日月みたいで、それを見るとどうしても泣きだしてしまう。これっぽっちも泣きたくなんてなかったはずなのに、いつの間にかぽろぽろと涙が零れて、水面へと落ちて行く。
「お湯、出していい?」
彼の声は寒さで震えていて、前髪の先から水がぽたりぽたりと水面へと吸い込まれていく。
うん、と言えなかった代わりに頷くと、彼が手を伸ばしてお湯を出した。湯気が出るほどのお湯が注いで、彼はまた瞳を三日月にした。
あたたかいお湯が水へと流れ込んで、それらが全部混ぜ合わさるまで二人で歯をカチカチ言わせながら坐っていた。彼の細くて尖った膝に手を置くと、彼は目を三日月にしたまま小さく歌を口ずさんでくれた。それはさっきまであたしが奏でていた音楽とは全然違う音で、彼の震えた声がまるで心臓の音のように聞えた。これは心臓を動かすための音楽だ。あたしは涙をぽろぽろ零したまま彼の音楽に全部の神経を研ぎ澄ませた。
「もう出ようか」
彼の声の震えは止まっていた。さっきまで罰みたいだったこの浴槽の中は、今では暖かいものに変わっていた。あたしは彼の言葉に頷いて浴槽から出る。
ペタペタと部屋まで歩くと先に浴槽から出ていた彼がバスタオルを持ってきてくれた。そしてあたしをストーブの前に坐らせると、開いていた窓を閉める。あたしは身動きひとつしないでストーブの前に坐っている。氷になった骨が溶けていく。今あたしの身体が濡れているのは、骨がとけてしまったからみたいだ。
「氷が溶けたみたい」