風花が舞う日
階上のレストランに席を移し、食事をするらしい。百恵は一人になりたかった。喫茶室を出ると、近くの映画館に入った。館内はガラガラに空いていた。百恵の両の目は、しっかりとスクリーンを捉えていたが、思考が千々に乱れた彼女の頭脳には、映像が全く届いていなかった。
今頃はきっと美味しい食事を摂りながら、にこやかに談笑しているであろう二人。『裏切り者め!』 妄想は妄想を呼び、<可愛さ余って憎さが百倍>の俚諺通り、いつしか憎しみの気持ちが心を支配していくのだった。
故無き邪推から、百恵の心に・・・。
第9章 バースディ登山
百恵の24歳の誕生祝いとして、鉄平が提案したバースディ登山の行き先は、彼女の希望通り、日帰りの妙義山に決定した。
「本当に妙義でいいの? もっと尾瀬とか、霧ヶ峰とか、北八つの池巡りなんかも良いと思うんだけど・・・」
鉄平は意外な面持ちで、百恵の再考を促したが、彼女は頑として初志を貫徹した。
登山当日は、雨こそ降っていなかったが、11月中旬としてはかなり寒い曇り空であった。しかもいつもなら、期待に胸を膨らませ、朗らかな雰囲気でスタートするのが常であったのに、この日は、3人がそれぞれの思惑に心をとられて、緊張で表情も硬く、交わす言葉も途絶えがちだった。
この日のコースは、登山の最後に、百恵の誕生日祝いを妙義神社で行う目論見から、中ノ岳登山口をスタートに、中ノ岳神社~轟岩~大砲岩を経て、鎖場のある御中道から妙義神社に至るコース設定になっていた。
登山口バス停から中ノ岳神社下までは、妙義紅葉ラインと呼ばれる有料道路を歩く。丁度、今年の紅葉の最盛期に当ったらしく、見渡すかぎり見事な錦秋を織り成す紅葉が、3人を歓迎してくれていた。
中ノ岳神社は、轟岩の基部に祀られていて、その社前から見上げる岸壁は、覆い被さるように聳立し、恐ろしいほどだった。
神殿脇にザックを降ろし、轟岩に挑戦する。ひげそり岩などの梯子を登り切ると、その頂に立てる。しっかりと後ろから、腰を確保してもらい眼下を覗くと、先程の本殿や社務所が、模型のおもちゃのように小さく見え、思わず手に汗を握る思いである。
売店のある広場の東側に、大きくアーチの形に刳り貫かれた岩が第四石門である。自然の造形は、こんな奇抜な形まで創造してしまうのだ。丁度、石門の丸い窓からは、空に向かって突き立った、柱のような大砲岩が眺められた。
この大砲岩への岩場が、悲劇の舞台に選ばれた。
「岩場では、しっかり3点確保を守って、落ち着いて移動するんだよ。いいね」
「ハイ」 「ハイ」 二人の返事は真面目そのものだった。
3人は、いつもの鉄平・百恵・春奈の順で、まさかの落石を避けるため、一人一人の間隔を開けて、岩場に取り付いていった。
時々、鉄平の指示する声がこだまする以外は、黙々と細心の注意を払い、岩登りの鉄則である3点確保を守り、自分の体を押し上げていく。
百恵は、最も足場の少ない、危険そうな個所を選び、自身はしっかりと足場を確保して、岩屑の塊りを足で蹴落とした。
ガラガラッと、岩の欠けらが崩れ落ちる音が、森閑とした山中に響き渡ると同時に、
「キャーッ!落ちるッ!鉄平さん助けてーっ!」と、悲鳴が・・・。
鉄平は、間髪を入れず、その声に反応した。上から見ると、百恵はかろうじて崖っぷちに、両手でぶら下がっているように見えた。
「動くなッ!そのまま動くなッ!直ぐ行くッ!」
鉄平は叫びながら、百恵の頭上まで敏捷に移動すると、片手で自分自身を確保し、片手を百恵に差し出した。
「さぁ、この手に掴まって。慌てないでゆっくり体重をかけるんだよ。いいね」
「モモちゃん、鉄平さんの言うとおりにするのよ」
百恵の急を知らせる声に、春奈も後ろから急いで追いつき、凍りついたように体を硬くして声を掛ける。
思い詰めた表情の百恵は、差し出された鉄平の手の平でなく、手の甲を握ると、一気に力いっぱい引っ張っていた。
まさか、百恵がそんな行動に出るとは、全く予想していなかった鉄平は、不意を突かれバランスを崩した。更に背中の重いザックが外側に振られ、鉄平を足場から引き離す力となった。
「ダァーッ!」
と、言葉にならない叫びを上げ、目を大きく見開き、信じられないといった表情を浮かべた鉄平が、百恵の傍らを落下していった。
「百恵ッ!あなた、なんてことしたのッ!」
春奈が絶叫する。
百恵は、額を岩に押し付け、肩を震わせ咽び泣いていた。
春奈が、百恵の足元を見ると、彼女の両足はしっかり岩棚に乗っていた。ということは、百恵が鉄平を故意に落とした・・・。
「だって、だって、鉄平さんをハル姉に取られたくなかったから。一生、二人の幸せな生活を見せつけられるなんて地獄だわ」
「そんな!そんな!鉄平さんは・・・」
春奈は、次の言葉を辛うじて飲み込んだ。もし、ここで百恵に、余計な言葉を掛けたり、厳しく叱責したり、難詰したら、彼女も鉄平の後を追いかねないと察したから。
丁度、見るからに山の熟練者とおぼしき、3人組の男性グループが追いついてきて、その場の異常な雰囲気に気が付き、
「どうしました?」
と、問い掛けてきた。
春奈が同行者の転落した、事の顛末を事故として話すと、1人がすぐさまケータイで地元警察に連絡し、救助隊の出動を要請してくれた。その後、悲嘆の涙に暮れ、悔恨の情に苛まれる姉妹は、3人組にサポートされ下山することになった。
曇り空のもと、何処からか大量の風花が、ヒラヒラと舞い落ちてきて、錦秋の紅葉を淋しい風景に変えていた。
第10章 衝撃の事実
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地元の遭難者救助隊は、町役場の地域振興課が兼務していた。警察からの連絡で、鉄平の救助に向かった隊員達は、すでに冷たい骸となった鉄平を収容して戻ってきた。
二人はまず、警察での事情聴取を受けた。百恵は黙して語らず、春奈がその時の状況を、包み隠さず証言した。ただ一点、百恵の狂言だったことを除いて。警察は事故と断定した。
鉄平の両親には、春奈から警察を介して、急を知らせてもらい、こちらに向かっているはずだった。春奈と百恵は、鉄平の遺体が安置された救助隊本部の片隅で、無言のまま身じろぎもせず俯いていた。両親の到着を待つ長い時間、堅いイスは針のむしろのように感じられた。
鉄平の両親が到着し、遺体が安置された部屋で、親子の対面となる。突然の事故で気も動転し、足許が覚束ない母親・イトを抱きかかえるように、父親・庄三郎が進み出て、鉄平の顔にかけられた白布をそっと持ち上げる。
「ワーッ!鉄平!なんで?なんで!あんなに危険な岩登りはしないって言ってたのに・・」
死顔を確認した瞬間、母は激しく慟哭し床に崩れ落ちた。父は無念そうに唇を噛み締め、目を堅く閉じ顔を仰向ける。周りで同席している人達は、その光景に居たたまれない気持ちになってしまう。