風花が舞う日
鉄平はその言葉には無言で応え、百恵にされるがままになっていた。
「これだけ天気が良いと、明日の夜明けが楽しみだな」
鉄平は独り言のように、空に向かって言った。
第6章 鳳凰三山・山行2日目
小屋から薬師岳山頂まで約10分、空は夜の帳(とばり)から開放されて、黎明を告げる明るさを取り戻している。しかし、足元はまだ暗く、ライトが必要だった。
防寒具に身を包んだ3人が山頂に立つと、足下から目路のかぎり、大海原が広がっていた。いや、違う。大雲海だった。遠く八ヶ岳・茅ヶ岳が、絶海の孤島のように山頂を雲海から突き出している。
雲海をはじめ、目に入るもの全てが動きを止め、息を潜めている感じ。やがて、東の雲海の果てに光の変化が起きた。徐々に空に赤味が、明るさが増してくる。そして、ご来光の瞬間がきた。
一瞬、金の矢が放たれたように、太陽の光が目を射る。神々しいまでのご来光は、いつ見ても感激だった。
「後ろを見てごらん」
鉄平が二人を促す。
振り返ると、今まで黒い壁のようだった白根三山にも、ご来光の洗礼がはじまっていた。まず、山々の山頂に黄金の矢が射込まれ、火が点ったように赤くなる。その赤味は燎原の火の如く、山頂部から徐々に下に向かって燃え広がるように、山体を赤く染めていく。
「アッ!モルゲンロートよ!マッターホルンの時と同じね」
「ワァーッ!素晴らしいわねーっ!」
「こんなに美しいモルゲンロートが見られるなんて、僕達ついてましたね」
3人こもごも、感激に胸を熱くしていた。
この時、春奈と百恵は、永遠の伴侶としての鉄平を強く心の内に意識しはじめていた。
この希少現象は快晴の早朝に限り、太陽が地平線から顔を出すほんの一瞬間だけ、自然が見せてくれる神秘だった。太陽が完全に姿を現した時は、もうなんの変哲もない山岳風景に戻ってしまう。
しかし次は、今まで静止状態だった雲海に変化が現れる。太陽光に暖められた大気の擾乱によって、もくもくと波打つ雲海のそこかしこに破綻が生じてきた。そして、雲海から普通の雲が生まれはじめた。
朝の感動体験はこれまで。小屋に戻り、朝食が済み次第出発しなければならない。本日、歩行時間6時間の長丁場が待っていた。
再び、薬師岳の山頂を踏む。先ほどは、足元が暗くて分からなかったが、頂上はまるで白砂を敷き詰めたように真っ白だった。北アルプスの燕岳と同じよう。抜群の山岳展望が申し分ない。
自然が造形した、ハイマツや花崗岩のオブジェが見事に配置された、天上庭園が目の前に広がる。体のエンジンが掛かるまでは、のんびりムードで稜線漫歩とする。
三山2つ目の観音岳頂上は、巨岩が積み重なり一坪くらいしかない。その分山頂に立つと、東京タワーの先端にでも立ったくらいの絶頂感が得られ、眺望もここに極まる。 一人づつ交替で山頂に立った写真を撮る。
ハイマツとダケカンバに囲まれた尾根を辿り、鳳凰小屋への分岐を見送る。そして、岩稜をひと登りで赤抜沢の頭に到着する。今まで、周りの風景に紛れて目立たなかった三山3つ目、地蔵岳の山頂がやっと目の前に曝された。
「エッ?あの岩の積み木は何?」
百恵が奇声を発する。
そこに全貌を見せた光景は、縦長の大岩がまるでドミノ倒しでもしたかのように寄りかかり、山頂目指して突き上げている。そして、頂点にはチューリップの蕾の形をした一番大きな岩が、天にまで届けとばかり垂直に突っ立っていた。
「地蔵ヶ岳山頂のオベリスクと呼ばれています。実はお二人に、あの光景をお見せしたくて、鳳凰三山を選びました。どうです?驚いたでしょ」
「写真でも見たこと無いわ。あの天辺の大岩は、まるでチューリップの蕾みたい。神様も変わった趣向がお好きなのね」と、百恵。
あの尖がり岩は、中央本線や高速道路からも見えるんですよ」
「じゃあ、今度機会があったら探してみますわ。あの岩の上まで登れます?」と、春奈。
「最先端まではロッククライミングが出来る人じゃないと無理ですね。あの大岩の中間までは登れますよ」
「私、登ってみたいわ。早く行きましょ」
此処までは常に、鉄平が先頭に立ち先導してきたが、百恵が何かに憑かれたかのように、先に立ち赤抜沢の頭を下りはじめた。
3人はオベリスクの基部でザックをデポし、空身で岩の城壁に挑んでいった。体育系の百恵の身のこなしは、鉄平も驚くほど敏捷で身軽だった。
これで今回の山行の核心部、ハイライトは終了となる。残る行程は、長い長ーい単調な下りが待ち受けているだけ。展望皆無の蒸し暑い樹林に覆われたドンドコ沢を、ただひたすら歩くだけである。僅かに、沢の途中で観られる4本の滝が、疲れた心と体を癒してくれるかも・・・。
最後に、青木鉱泉の風呂が、2日間の汗と疲れを拭い去ってくれる楽しみが残っていた。
こうして、鳳凰三山・夜行1泊2日の山行は、3人の心をより親密に近付け、良き思い出の1ページとして、それぞれの記憶にインプットされた。
第7章 度重なる三角デート
春奈は、某貿易会社の社長秘書を、百恵は、某フィットネスクラブのインストラクターを職業としていた。
鉄平と春奈は、休日が同じ土日・祝日で、デートには都合が良かったが、百恵は売れっ子インストラクターとして、土・休日の方が忙しいくらいだった。その百恵が、鳳凰三山から帰ると直ちに、勤務を平日のスクール指導のみに、強引にシフトしてしまった。
そして、行動派の百恵の働きかけで、週に1回、休日毎のデートが始まった。鉄平も春奈も迷惑というより、渡りに船の心境だった。但し、デートは常に男1人に女2人の、カップルならぬ三角トリオだった。
特に、誰かが言葉に出して取り決めたわけでもなく、何事にも我を通す百恵でも、姉を差し置いてまで抜け駆けをしようなどとは、自らの矜持というか、プライドが許さなかったようだ。
デートコースは3人が会った時、それぞれが次回の案を持ち寄り決めていたし、百恵のケータイを介するケースも多かった。
8月最初の日曜日は、百恵のたっての所望で、百恵が所属するクラブ主催の『納涼の夕べ』に招待された。
この日、一番の呼び物のショーは、百恵もメンバーの一員だったエアロビックダンスショーで、今年の全日本選手権大会女子団体の部で、見事優勝の栄冠を射止めた、折り紙付きのダンスだった。
その若さがはちきれそうなスピードと、一糸も乱れぬ動き、躍動感溢れる肉体の乱舞は、鉄平の想像を遥かに超越したものだった。
その後の立食パーティーでは、鉄平と春奈にピッタリと寄り添う、レオタード姿の百恵に衆人の注目が集まり、2人は身の置き所が無い思いをした。
特に鉄平は、百恵の彼氏として公認され、好奇とも羨望ともつかぬ目を向けられていた。百恵は、自分の目論見通り、鉄平の百恵に対する評価で、確実にポイントを上げたと実感していた。
2週目は春奈の希望が入れられ、東京都美術館で開催されている『書道展』に足を運んだ。今度は、春奈がアッピールポイントを上げる番だった。