風花が舞う日
30分歩いて、1回目の小休止をとる頃、やっと辺りが白みはじめた。すでにカラマツ林を抜けて、ミズナラやクヌギなど広葉樹林帯に入っている。そして、ほぼコースタイム通りの1時間で、夜叉神峠に登り着いた。
実際にまだ彼女たちの脚力を知らなかった鉄平に、春奈も百恵も山歩きの初心者ではない証をみせたことになる。まあ八ヶ岳辺りを女性2人で歩くくらいだから、ずぶの素人ではないと鉄平は思っていたが、まさしくその通りだったので、今回の山行の成功を確信した。
峠に登り着き、目の前に障害物が一切無い眺望が広がると、澄み切った青空の下、神々しい朝日を山体全面に浴びた、白根三山の巨大な壁が立ち塞がる。
右端に霊峰・富士山が、次いで標高日本第2位の北岳が、そして、同じく3,000mクラスを誇る間ノ岳・農鳥岳が、まるで肩を組むかのように、稜線を繋いでいる。
あまりに近距離で、シネラマのように横長なので、ワンシャッターではカメラに収まりきれない。
「ウワーッ!凄い眺めねーッ!鳥肌が立っちゃう!アッ!あの北岳の正面が、クライマー憧れの北岳バットレスね!」
羨望のこもった百恵の声が声高に響く。
「エッ、百恵さん、だいぶ山に関する勉強をしてますね?」
「そうよ、山のこと知らないと、巳月さんとハル姉の会話から仲間外れにされっちゃうもん」
「そ・そんなこと・・・」
「此処まで登って来た甲斐があったわね。いつか、あの稜線を歩いてみたいわね」
春奈も目の前の絶景に、感動の面持ちを隠さない。
「お二人の脚力なら大丈夫、歩けますよ。来年あたり行きたいですね。もし、僕でよかったら・・・」
「なに言ってるの。良くも悪くもないわ、私、巳月さんと一緒じゃなきゃいやよ」
峠を右に登ると、夜叉神峠小屋の建つ笹原に出る。小屋の定員は30名と、規模が小さい。
此処からの展望、カラマツと白根三山の組み合わせがまた、一幅の芸術作品にも匹敵する眺めとなり、大勢の人が腰を降ろして休憩する適地となっている。茅戸の斜面には、濃いピンク色のヤナギランの群生が、今を盛りと咲き誇っている。
これよりコースは、緩やかなアップダウンを繰り返す、ほぼ稜線に沿った長い縦走路になる。鬱蒼としたコメツガの樹林帯の中、杖立峠を過ぎ以前の山火事跡に出ると、一気に山岳展望が広がる。
幾重にも幾重にも前山を足下に従えた、雄大な霊峰・富士山が、堂々と裾野までを露(あらわ)に聳え立っている。
この時午前8時、姉妹2人は口にこそ出さないが、脚の運びを見れば、夜行の疲れが出てきているのは明白だった。鉄平は、手早く携帯用簡易テントを組み、本日2回目の朝食後、2人に1時間の昼寝タイムを申し渡す。
「エーッ!お昼寝が出来るのーっ!嬉しいっ!」
百恵の歓声が上がる。
その間、鉄平はテントの前に陣取り、愛用の画帳を開き、手慰みのスケッチを楽しむ。テント場でもない所に張られたテントを見て、縦走路を歩く登山者がビックリしている。なかには、ベテランらしき男性などは、違法な行為に対しブツブツ苦言を呈していく。
たとえ1時間といえど、睡眠の効果は絶大だった。見違えるほど元気を取り戻した二人は、足取りも軽く前進を再開した。千頭星山からの稜線を合わせ苺平に着く。苺平からは、夏の直射日光を遮ってくれる原生林のなかを緩く下る。
ますます鬱蒼と深まる樹林帯に突然、ポッカリと天井が開いたような平坦地があり、そこに南御室小屋が建っていた。その小屋前に貼り紙で〔本日、薬師岳小屋は予約客で満員です。予約していない方は、当小屋もしくは鳳凰小屋をご利用下さい〕と記されていた。
この南御室小屋泊まりでは、明日の残りの行程が長すぎるし、鳳凰小屋まで足を伸ばすとなれば、今日のうちに三山を全て踏破しなくてはならない。
「・・・・・」
無言で貼り紙を指差し、不安そうな目で鉄平を見る百恵。
「大丈夫、予約は入れてあるから、でも、満員となると今夜もきついなぁ」
鉄平は予想はしていたものの、いざ、現実のものとなると・・・。
それに宿の薬師岳小屋は、天水が頼りで、個々の水補給に応じてくれそうもない。だから、此処の水場で飲み水を補給する必要がある。水場までの下り上りの往復が辛いから、鉄平が3人分の水筒を持って水場に行く。
小屋を後に、ひとしきり急登が続きアルバイトを強いられるが、森林限界を突破し、再び展望が広がる砂礫地を登れば砂払岳山頂だ。直ぐ目の前に、灰白色の岩をまとった薬師岳が、手を伸ばせば届きそうな距離にある。標高2,780m、今回、目的の鳳凰三山一つ目の山になる。
夜叉神峠から左手に、付かず離れず付いてきた白根三山が、峠で見るより更に美しい山容を見せてくれる。
砂払岳と薬師岳の鞍部に、ダケカンバの林に包まれ守られるように、薬師岳小屋がこじんまりと建っていた。本日3人の宿になる。
途中、お昼寝とか道中たっぷり時間を掛けて歩いてきたので、他の人達より遅い到着となる。すでに、小屋の内も外も宿泊する人でいっぱい。早速、宿泊手続きをし前金で代金を支払う。夕食は5時・5時半・6時の3交替で、鉄平たちは遅く着いたので、最終の3番手だった。
食事の順番よりなにより鉄平が心配したのは、定員100名が詰め込まれて一夜を過ごす寝床だった。姉妹はまだ本当の山小屋の宿泊が、どんな状態なのか未体験で知らなかった。前以て引導を渡すように、男女の別なくギュウ詰めの雑魚寝になると説明する。
「わーぁ、なんだかおもしろそうね。中学の時の修学旅行みたい」
と、百恵は無邪気にはしゃいでいる。
幸い予約の時期が他の人達より早かったので、小屋の壁ぎわから3人分が割り当てられた。
寝床の一人分のスペースは丁度肩幅くらいか。仰向けに寝て、両サイドの人の肩と肩が触れ合うかどうかという感じ。百恵の希望で春奈が壁ぎわ、百恵は真ん中、鉄平が見知らぬ夫婦者の旦那と隣り合わせで、寝る場所が決まった。
夕食は定番?のカレーライス。持参の牛缶を開け、ビーフカレーでいただく。食事が終われば、あとは何もすることが無い。夜行の疲れも手伝って、寝床に横になれば直ぐ白河夜船である。
大勢の寝息が聞こえる漆黒の暗闇の中で、ふと目覚めた鉄平は、ヘッドランプで足元を照らしながら、小屋の外に出る。時計の針は午後10時を指していた。
上を見上げると、周りの樹木の茂みが縁取りになった夜空が、信じられないほど満天の星でキラキラと輝いていた。その星の数・大きさ・輝きは、平地では決して見られない光景だった。天の川もここでははっきりと見えている。
「ワーッ、すごい数のお星さまねーっ。手を伸ばせば攫めそうね」
いつの間にか鉄平の横に百恵が立っていた。
「アッ、百恵さんゴメンね。起こしちゃったみたいだね」
「うぅぅん、私も目が覚めて困ってたの。長い夜になるなーって」
「そうだったの」
「ウー、寒いわ」
と言いながら、百恵は暗がりをいいことに、大胆にも鉄平の腕にしがみ付いてきた。そして、
「時間よ、このまま止まれ!」と呟く。
「・・・・・」