風花が舞う日
「ごめんなさいね、遅れて・・・。ごきげんよう、巳月さん。お待ちになったでしょ」
と、本当に申し訳なさそうに淑やかな春奈。
「イエ、僕も今来たところです。コンニチハ」
と、今までの不安な気持ちなんか何処へやら、突然、降って湧いたような美の女神の出現に、言葉も上擦り気味になる。姉妹は、初対面の登山服姿からは全く想像も出来ない程、華麗なる変身をしていた。
「ホントはね。1時間も前に着いていたのよ。そしたらホコテンでしょう。久し振りの新宿だったので『伊勢丹に寄ってみよ』ってハル姉がいうから・・・」
「アラッ!それは違うでしょ、モモちゃんが・・・」
鉄平はニコニコ微笑ながら、姉妹の微笑ましい、そして果てしない論争を見守っていた。
「アラッ、ごめんなさい。巳月さんを除け者にして、私たちったら恥ずかしい」
春奈が先に我に返る。
「そうよ!ねぇ、巳月さん。巳月さん、早く肝心のお話済ませて、お食事に行きましょ。百恵、お腹ぺこぺこよ」
「そうですね。それじゃぁ早速・・・」
と、用意してきたスケジュール表のコピーを二人に手渡し、
「結局、夜行1泊2日になりますけど、お二人ともまだお若いから、夜行でも大丈夫ですよね?新宿から夜叉神峠登山口まで直通バスがあります」
「夜行って私達初めて!登山口まで直行出来るの?夜行バスなんてなんだかワクワクしちゃうわね」と百恵。
「あとは実施日を決めたいのですが、お二人のご都合は?」
「私たちの都合より、登山に最適な日取りがあるのでは・・・」と春奈。
「ハイ、大体会社員は旧盆の夏休みを利用しますので、その時期は外した方がいいでしょう。でも、最近は中高年の登山者が増えていますから、一概には言えなくなりましたけど。最適な日取りは、勿論好天に限りますが、天候ばかりは全く予想がつきませんし・・・。ただひとつ言えるのは、梅雨明けの直後は山の天気も安定し、しばらく好天が続きます。それに高山植物もその頃が種類も豊富で見頃になりますよ」
「では、7月末で決まりね。巳月さんはお仕事、大丈夫?」
「僕は日程が決まれば、それに合わせて調整しますから。それから登山口直行のバスは、週末の金・土のみの運行ですから、金曜日発で行きます。あとは、えーっと、あぁ、必携の装備品リストを参考にして下さい」
「委細承知しました。何から何までお気遣い下さりありがとうございます」
スケジュール表と必携品リストを確認しながら春奈が応える。
「これで万事OKね。じゃあ、お食事何処にする?」は百恵。
「申し訳ないけど、もう一度伊勢丹まで戻って下さい。三笠会館に席を予約してますので・・・」
「アラッ、豪華版ねっ。早く行きましょ」
三笠会館は鉄平にとって全く縁が無い場所だったが、クライアントを接待した時、上司のお供で一度だけ会食したことがあり、知っていた。
こうして、変則デートではあったが、初めてのデートは和気藹々のうちに大成功裏に終わった。鉄平は最初こそ緊張して、何処となくぎこちない態度だったが、後半は何のわだかまりも感じさせない、リラックス状態で姉妹に接していた。
第5章 鳳凰三山・山行1日目
鳳凰三山に出発する日がやってきた。この日の午後10時、3人は新宿駅で合流した。西口地下商店街は、すでに営業を終えてシャッターを閉じた店がほとんどで、通行人も足早に通り過ぎていく。その光景は、いつもの賑やかな新宿の街とまるで雰囲気が違っていた。
3人は重いザックを背負い、薄暗い通路を都庁地下大型バス駐車場に向かう。その駐車場の一角だけ、異様な活気が漂っていた。色とりどりの大型バスが、ズラリと尻を揃えて駐車している。そして、ごうごうとエンジン音が響き渡り、ひっきりなしに観光バスが出入りしている。
その中央辺りに乗客の集合スペースがあり、此処だけは黒山の人だかりになっていた。その誰もが全て登山客と知れる服装だった。携帯マイクを持った係員が、行き先の書かれた幟を片手に、それぞれのコースで予約している人達を集めていた。
菖蒲姉妹はやはり少し緊張しているのか、特に百恵はいつもの軽口が影を潜め、言葉少なく鉄平の挙動に注目している。鉄平は係員に乗車するバスを確認して戻ってきた。
夜叉神峠行に指定されたバスでは、バスの横腹にあるトランクの扉を大きく開け放ち、乗客のザックの積み込みが始まっていた。奥深い南アルプスを目指し、終点・広河原まで行く人達のザックは奥に積み、鉄平達、手前の夜叉神峠登山口で降りる人のザックは手前に積まれる。
車中で必要な飲み物・小物だけ持ってバスに乗り込む。乗車口の右横に張り出された座席表に、割り当てられた氏名が載っている。鉄平たちは前から3列・4列が指定されていた。バスは定刻の23:00きっかりに、ゆっくりと動きだした。
「ハル姉、いよいよ出発ね。ワクワクドキドキで私、眠れるかしら。心配だわ」
「私も同じよ。でも、出来るだけ寝ておかないと・・・」
「大丈夫!リラックスして、目をつぶっているだけで休息になりますから。この新聞紙を足元に広げて敷いて、靴を脱ぐと足が楽ですよ」
と、鉄平の細やかなアドバイスがある。
はじめのうちは、あちこちの座席から話し声が聞こえてきたが、他人同士でも目的は一つの集団、誰もが早々に就寝の準備に入る。
やがて、時計の針が12時を指すと、小さな声で「消灯します」のアナウンスがあり、まずは常夜灯に照明が落とされ、5分後に車内は完全に消灯された。
中央高速道をひた走るバス。窓のカーテンは閉められているが、街頭の灯りが規則正しく前から後ろに座席を明るくしていく。都内はムシムシと蒸し暑い夜だったが、車内はエアコンが程よく快適な温度を保ってくれる。
姉妹は携帯用空気枕を首に巻き、アイマスクと耳栓まで用意していた。
バスは途中、2回のトイレ休憩をはさんで、予定通り翌朝の3時に夜叉神峠登山口に到着した。まだ夜明け前で、辺りに灯火など無いから外は漆黒の闇の中である。
此処で鉄平たちを含め、10名足らずの乗客と荷物を降ろしたバスは、アツという間に走り去って行った。各自ヘッドランプを頼りに出発の準備をする。
甲府駅発の路線バスが臨時バスも含め3台も到着し、ヘッドランプの灯りが交錯し、周辺は一気に戦場のような喧騒に包まれる。
用意が整った3人は、鉄平・百恵・春奈のオーダーで、ゆっくりと夜叉神峠への登山道を登りはじめた。ヘッドランプで自分の足元を照らし、ゴツゴツした岩だらけの道を、足を置く場所を選びつつ進む。
まだヘッドランプに慣れていないと、不用意に首を振って足元がおろそかになったり、灯りの照らす範囲が狭くて難渋することになる。鉄平は別に強力な懐中電灯で、後ろにピッタリ着いてくる百恵の足元を照らす気配りを忘れなかった。
真っ暗闇の登山道を、ランプの灯りの行列が黙々と続く。上り坂に喘ぐ荒い息遣いと、重い靴音だけが暗闇に充満する。