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空はどこまでも青かった

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 弘之はチラリと兄を見上げた。勝次郎の兄・進一郎は、帰省の度に必ず兄を訪ねてくる。周りが海軍士官の進一郎に昔のように気安く声をかけられない中、兄だけは変わらず接し、互いを幼い頃からの呼び名で呼び合った。弘之の目には、兄は少しも進一郎に見劣りしていなかった。進一郎ほどに恵まれた体格ではないにせよ、すらりとした体躯には、さぞ海軍の真っ白い夏服が似合ったことだろう。
「兄ちゃんは」
「ん?」
「兄ちゃんは、カツやんの兄ちゃんとおなしくらいよう出来たんじゃろう? はぐゆう(悔しく)ないん?」
 兄は弘之を見下ろした。
「はぐいい? 何で?」
「あっちゃぁ偉い海軍さんになってぇ、お国のために働いとるんに」
「はぐゆうないよ。シンのが、よう出来たし」
「わしは、はぐいいんじゃ、はぐゆうて、仕方ないんじゃ」
 自慢の兄だったからこそ―― 一度、言葉にしてしまうと後は堰を切って、兄に対して日ごろ思っていたことが零れ出る。「日本男子たるもの、一兵となりて国を護り、天皇陛下に命を捧げ奉ることこそ、本懐と心得よ」と教練のたびに教え込まれる言葉。「本懐」の意味もはっきりとわからない弘之だが、教えられた通りに兄に向って放った。
「わしは早(はよ)う大きゅうなりたい。早う大きゅうなって、兵隊さんになって、お国の役に立ちたい。みんなを守りたいんじゃ。兄ちゃんはそがいに思わんのんか?!」
 兄は口を挟むこともなく、弘之の話を聞いていた。
 ひとしきり吐き出して再び弘之は押し黙る。二人の足は止まっていて、まだ土手の上だ。弘之の小さな肩は上下していた。
「ヒロは今だって十分、役に立っとるよ。家屋疎開の後片付けをしたり、農地開墾のテゴ(手伝い)をしたりして。どれもみんなを守ることで、みんなを守るってこたぁ、国を守っとることなんで」
 兄の手は弘之の手を離れ、肩に回った。
「ちいと休んでいこ」
 土手の斜面に二人して座る。川から上がってくる微風が、興奮したせいで火照った弘之の頬を撫でて過ぎて行った。
「きれいじゃなぁ」
 しばらくの沈黙の後、兄が呟いたので、弘之は顔を上げた。夕日が町や川面を金色く染め始めている。もう少し時間が経てば、それは茜色に変わるだろう。見慣れた平凡な風景のはずなのに、兄の言った通り、不思議な美しさがあった。
「僕はこの町が好きで、」
と兄は言葉を継いだ。
「お父ちゃんが好きで、お母ちゃんが好きで、ヒロが好きで。兵隊になってお国のためにゃあ働けんけど、身近な人のためにゃあ働ける。そりゃあ、はぐいい(悔しい)ことでも、恥ずかしいことでもないんじゃ。守る『器』が違うばっかしで、人の命の尊さは同じだもん。僕は身体もちいと悪うしとるし、頼りないかも知れんけど、大切な人を守りたいゆぅて思う気持ちゃあ、シンに負けんよ? その気持ちもね、『本懐』ゆうんで」
 語りかける口調に弘之は兄の方を見た。真っ直ぐ前を向いて、兄は傾いた夕日をまぶしげに見つめている。
 弘之の言葉に対する答えは、それ以上返ってこなかった。多分、幼い弟のためにわかりやすく噛み砕いて答えてくれたのだろうが、わだかまりが残る弘之の心には、素直に入らない。だから弘之は前に向き直り、同じ夕日をぼんやりと見つめた。
「そろそろいのう(帰ろう)か」
どれくらいか経って、兄が立ち上がった。
 弘之は、もう少し落ち着いたら兄の言ったことを考えてみようと思った。今は、駄々っ子のようだったさっきの自分が恥ずかしくて、それ以上のことは考えられない。
 差し伸べられた手を弘之は取らなかったが、今度は並んで歩いた。




「熱が下がらんねぇ。今日は学校、休んだほうがええわね」
 帰ってから弘之は熱を出した。翌朝になっても熱は下がらず、枕元で母がそう言った。
「学校にゃあ、僕が言うておくよ」
 出かける支度を済ませた兄が、弘之の頭を撫でる。
「昨日、忘れた桃を持って帰ってくるけん、楽しみにな」
「うん」
 弘之は辛うじて頷くだけだった。夏風邪の熱のせいもあるが、まだ昨日の気恥ずかしさが残っていたからだ。
 母が兄を玄関まで見送る。二人の会話が聞こえた。
「あんたも休んだらどうね? ここんとこ、調子ようないじゃろう? そんなんに、昨日も出かけたし」
「八時半にお客さんと約束しとるから」
「そがなんじゃったら、ゆんべ、一緒に泊まったらえかったのに」
「ヒロを一人で往復させらりゃせんよ。それに、僕の調子が悪いなぁ、いつもんことじゃけん。行ってきます」
 兄が出て行く声がして、続いて母が家の前に打ち水をする音が聞こえた。
 縁側の掃きだし窓は開け放たれ、弘之が寝ているところからも空が見えた。今日もよく晴れて、すでに蝉も忙しなく鳴いている。予定では建物疎開の日であった。確か兄も、父が出先から戻り次第、町内会の動員で出るはずだ。調子が悪いと言っていた。昨夜、向こうに泊まっていれば少しでも楽だったろうに、弘之のために兄はそれをしなかったのだ。これが兄の言った『家族を守る』と言うことだろうか?
 今日、兄が帰ってきたなら、昨日のことを謝ろう。言ったことは悪いとは思わないが、言い過ぎであったと思う――熱がじわりと眠気を呼ぶ中、弘之はそう考えていた。
 瞼が落ちる前、空の色が目に入った。
 一九四五年八月六日の朝の空は、どこまでも青かった。




 父は隣町に出かけていて無事だった。しかし兄は、帰って来なかった。
 帰ってきたのは少しの骨と、厚いレンズの壊れた眼鏡。
 あの日、兄が店番をすると言わなければ、父は隣町に行かなかったのだと言う。朝の八時半に来客の予定があったからだ。兄が店番をして応対するから、父は安心して出かけたのだった。
 父はどうせ翌日も来るのだから三人で一緒に泊まろうと言ったらしいが、兄は空襲を心配して、弘之を町なかに泊めることを反対した。「空襲はない」と言う噂を信じていなかった。
 結果的に、兄は家族を守ったことになる。
 あれから二十年が経ち、両親は健在で父はまだ働いている。弘之は結婚して子を為した。子供は男の子で、兄から一字もらって名づけている。兄が繋いでくれた命だ。
「あら、今年も来てくれたんやねぇ?」
 墓前に供えられた白い百合の花を見て、母が言った。毎年、その日になると白い花が供えられていた。あの翌年から欠かされることなく、誰よりも早く。
 花の主は兄の親友の進一郎だ。進一郎の家族は、横須賀に赴任していた彼と、隣県に嫁いだすぐ下の妹以外、すべて失われた――弘之の幼馴染の勝次郎も。
 進一郎だと知ったのは六年目の夏のこと。足の弱った祖母を連れた両親よりも一足先に墓所についた弘之は、墓前に佇む彼を見つけたのだが、目を閉じて黙する姿に、とうとう近寄ることも声をかけることも出来なかった。以来、花はあっても進一郎自身と会うことなく、今に至っている。いつか彼と兄のことを話したいと思った。弘之はもっと兄のことを知りたかった。
「今日も良い天気だ」
 高台の墓所からは町が一望出来た。
 青い空の下、陽光にきらきらと家々の屋根が光っている。町は新しく生まれ変わり、かつての面影を見ることは難しかったけれど、

『きれいじゃなぁ』

と、兄の声が聞こえた気がした。