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空はどこまでも青かった

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弘之は幼馴染の「カツやん」こと勝次郎(かつじろう)が羨ましかった。
 勝次郎の兄・進一郎は町一番の秀才で、中学校校長の勧めと町会議員の後ろ盾で海軍兵学校を受験。今は大尉として、横須賀で沿岸防御にあたる戦艦に乗艦していた。年に数度もない休暇で帰省するたびに町内は大騒ぎで、弘之たち軍国少年にとっては、山本五十六などと言った遠い軍神よりも英雄的存在だった。
 弘之にも兄がいる。兄の英治(ひではる)は進一郎とは同級で、中学では席次を争うくらい優秀だったのだが、強度の近視と栄養不足からくる夜盲症気味であった為、兵学校の受験資格を得られなかった。それだけでも弘之を落胆させるに十分だったが、徴兵検査の折には肺気腫を患って、結局、それも受けられない始末。文理大学に入学を果たしたものの、体調不良が長引いて休学を余儀なくされた。若い日本男児として言わば落伍者の判を押されたようなものであるのに、当の本人は気にする風でもなく、家業の提灯作りを手伝ったり、体調が良ければ勤労動員に参加し、空いた時間には本を読んで過ごしている。
「あーあ、カツやんはええの。なんでわしんとこは、ああなんじゃろ」
 弘之がそう言うと、勝次郎は自慢げに笑みを浮かべた後、
「でも、ヒロちゃんとこの兄ちゃんも、頭が良いじゃあなぁんか。いっつもいたしい(難しい)本、読みおるし」
と答えた。
 確かに九歳の弘之には難しい、漢字ばかりの本を読んでいる。それは近所中でも有名だった。しかし中には外国語の本もあって、警察に疑われたことがある。敵性語(英語)ではなく同盟国の文学書だったので大事には至らなかったが、「アカ(共産主義者)ではないか」と噂する人間もいて、それがまた弘之には恥ずかしかった。
「それにシン兄ちゃんが、『あいつはもともと俺よりも頭がええ』って言うとったよ」
 憧れの進一郎が自分の兄を褒めていると聞いても、弘之は素直に喜べなかった。親友の欲目と言うものではなかろうかと。
「頭がようても、お国の役にたっとらん。宝の持ち腐れじゃ」
 だから弘之は、否定的に答えてしまうのだった。




 その年の春から米軍による空襲は激しくなり、毎日、日本のどこかしらの町が焼失し、人命が失われた。主要都市はもちろんのこと、軍需工場、製鉄所、造船所を有する工業都市は集中的に攻撃目標とされる。人々は縁者を頼ったり、子供達を学童疎開に出すなどして、難を逃れるために町を離れて行った。
 弘之たち一家も住み慣れた市街地を離れ、山側に十キロほど行ったところに家を借りて移った。父と兄はそこから仕事場を兼ねた元の自宅へ、弘之も国民学校にそのまま在籍し、行き帰りを三人一緒に通う。
 弘之たち同様、郊外に居は移しても、日中は商売や勤労動員のために市街地に戻る人間は少なくない。「B 29は軍港を抱えた隣町を狙うため、こちらには来ない」と言う根拠のない情報が信じられていたからだ。実際、警報はなるものの、爆撃機は町を通り過ぎるばかりだった。それゆえ疎開する一方、逆に疎開してくる者もいるくらいで、市井の活気は以前とさほどに変わらなかった。
 その日は日曜日であったが、急ぎの仕事が終わらなかった父と兄がいつも通り仕事場に出ると言うので、弘之も手伝いの名目で同行した。もっとも弘之の本当の目的は友達との遊びである。父もよく知ったもので午後からは自由にさせてくれた。
 戦況は厳しく、戦時統制、物資不足等が人々の日々の生活を不自由にしていた。それでも基本的に子供達の遊びに変化はなく、夏の盛りに入った頃には中州の町の川べりで、水遊びをする彼らの声が疲れた大人たちを慰めた。
「ヒロちゃん、ありゃあヒデ兄ちゃんじゃない?」
 勝次郎に肩を叩かれて、弘之は水面から目を上げた。勝次郎の指差す土手の斜面には、丸めがねの痩せた男が座っていた。はたしてそれは兄の英治で、弘之と目が合うと手を振る。傾き始めた夏の遅い夕日が帰る時間を知らせているが、父の姿はなかった。
 弘之は川から上がり、脱ぎ置いた服を引っつかんで兄の元に向った。
「お父ちゃんは?」
「明日、朝八時に大竹に納品に行くけん、今夜はこっちに泊まるって」
 と言うことは、兄と二人で帰ることになる。弘之は気まずさを感じながら、手早く服を身につけた。
「いぬる(帰る)んかぁ?」
 後ろで勝次郎たちの声がした。どうせ明日は学校なのだから、自分もこのまま父と一緒に泊まりたいと弘之は思ったが、兄はすでに歩き始めていて、帰ることを無言で促している。
「うん、また明日な」
 仕方なく、手を振る。
「うん、また明日!」
 きれいに揃った友達の声を背中に受けながら、弘之は兄の後を追った。
 土手の上を二人して歩く。兄は歩速を落としてくれたが、弘之は並んでは歩かず、離れて後ろをついて行った。時折、兄は気にする風に振り返り、二人の距離が開くと立ち止まって追いつくのを待った。弘之が追いつくと歩き出すのだが、また弘之によって意図的に間は開く。
 開けば立ち止まり、追いつけば歩き出す…を繰り返し、何度目かに弘之が追いついた時、兄は立ち止まったまま動かなかった。見上げると、瓶底のように厚い眼鏡レンズの奥の目が、ふっと笑みを作る。弘之は目線を下に逸らした。兄は少し腰をかがめ、俯いた弘之のその目を覘き込む。
「ヒロはこの頃、僕とあまり話してくれんね? なんかヒロの気にいらんことしたかな?」
 一回り年が離れているせいか兄はいつも優しく、弘之は叱られた記憶が無い。今も態度が悪いのはあきらかに弘之の方であるのに、それを咎めもせず、ちゃんと話を聞こうとしてくれている。
 勝次郎にとって進一郎がそうであるように、弘之にとっても英治は自慢の兄だった。盆や正月などの親戚の集まりでは、兄の優秀さは話題の中心で、従兄弟達は羨望の眼差しを送る。それを見るたびに弘之は誇らしかった。だからこそ、今の兄をどうしても受け入れられない。海軍士官の道はともかく、一兵となって国を護り、命を捧げることも叶わず、それなのに悔しがる様子も見せないで後方支援に甘んじている兄が、弘之には我慢出来なかった。
「なんも」
「『なんも』ってことはないじゃろう? ヒロが思っとることを言うてごらん」
 弘之は「キッ」と顔上げて兄を見た。
「なんもない言うたら、なんもない!」
 幾分か語調は強くなり、声が甲高く響いた。
 兄は一度、目を伏せ、それから弘之の坊主頭を撫でると、その手を握って再び歩き始めた。
 手を握られていては距離を取ることも出来ず、弘之は兄と並んで歩く。痩せて骨ばった兄の手は、真夏だと言うのに乾いて熱を感じなかったが、重なったところから弘之の体温が移って、うっすらと汗ばんだ。
「今日、隣の山崎さんから桃をもろうたのに、持って帰ってくるん忘れたよ」
 弘之は口を利かないままだった。兄は構わず話かける。穏やかな口調で、「今、学校では何を習っているのか」「教練は辛くないか」などなど。