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青は藍より出でて、藍より青し(後編)

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「亜衣をそそのかした事か?悪いが、向こうから来てもらっても同じだ。俺は預かりものに手を出すつもりは無い。」
「えええっ?!」
憮然とした顔で言い切った丈ノ進に次郎吉は驚愕し、思わず階段の上に大きく仰け反った。
「だ、旦那、まさか、あれだけの可愛い娘に言い寄られておいて、何もしなかったんですかい?」
「悪いか。」
「だって、旦那だって物欲しそうな顔でしょっちゅう亜衣さんを見てるじゃありゃせんか。」
「そんな顔するかっ!!」
「いやいや、信じられねぇ。毎日あんな可愛い声で、『旦那さま』、なんて呼ばれ続けて、おかしな気にならねぇ方がおかしいですぜ。」
ありえない。
一体どういう神経をしているんだか、さっぱり理解できない。
次郎吉は恐ろしいものでも見るかのように、細い目をひん剥き、その身をぶるっと震わせた。
「となると、旦那はやっぱり芳町の方なんで・・・?」
「違うっ!!」
芳町は男色のための陰間茶屋が多くある町で、これまで浮いた話の無い丈ノ進はこの町に用がある方面の人間なのではないかと、事あるごとに疑われているのだ。
侍は身辺も潔くしておかねばならぬもの、と心がけているだけの話だというのに、根も葉もない噂を立てられ、丈ノ進は心底不愉快に思っている。
「亜衣は己の代わりに毒殺された母親の仇を討つため、歯を食いしばってこのようなドブ臭い長屋に身を潜めているのだ。そんな女に無体なまねなどできるものか。」
昨夜は一瞬、手を出しかけたくせに、そんなことはおくびにも出さず、しれっとした顔で宣言すると、次郎吉はその鼠のような顔をくしゃくしゃにして唸った。
「・・・こいつはたまげた。まさか、ここまでお堅い事をおっしゃるとは、さすがと言うか、見事と言うか、手のつけようがねぇと言うか・・・」
「うるさい。」
「しっかし、あの苛つきっぷりから見ても、そのやせ我慢だってそう長く続くようには見えねぇですけど。」
「嫁入り前の娘に傷をつけるよりマシだ。」
丈ノ進が、ふんっと鼻を鳴らして言い放つのを次郎吉は呆れたようにみつめる。
女房と偽って預かって欲しい、という無茶な願い事をしてくる、主筋でもない見目美しいお姫さま。ここまで条件が揃えば、行きがけの駄賃代わりにちょいと手を出したって悪い事じゃない。
何を遠慮する必要があるというのだろう?
「旦那・・・それだけ亜衣さんの将来を案じてるってことは、要するに、心底惚れちまったんですかい?」
「そんなわけあるか。」
丈ノ進は憤然とし、きっぱり否定した。
「俺は侍だ。侍としてこの話を引き受けた以上、預かりものには傷をつけず、きっちり返すのが普通の事だろう。」
「・・・お侍ってのも、大変でやすねぇ。」
遊び人の次郎吉にはそれ以上言いようがない。
このご時勢、そこまでの堅苦しい覚悟を持った侍がどれだけいるだろうか?
ましてや、誰に気兼ねする必要も無い浪人者である。何が楽しくて、そこまで真面目に生きていかなきゃならないんだか・・・
・・・どうしようもねぇ程、不器用なお人なんだなぁ。
次郎吉は憐れむような目で丈ノ進を見上げてくる。
丈ノ進は憮然とし、口をへの字に曲げて、次郎吉の鼠顔から視線をそらした。
馬鹿らしい事を言っている自覚くらいは丈ノ進にもある。
それでもやはり侍としての信義は捨てたくないと思っている。仕えるべき主家も無く、9尺2間の裏店で細々と生きながらえているが、だからこそ、誇り高き侍でありたい。役に立つ日が来るとも思えない剣術の稽古に一人励むのも、そのあたりの心情からきていることだ。
そろそろ夜が明けるのか、東の空の細い雲が淡く色を帯びてきた。先ほどまでくっきり見えていた弦月も薄っすらと空の色に溶け込もうとしている。
明けの六つ(午前6時頃)だ。
隣り近所の連中も起きてくるだろう。朝の早い棒手振りの家なら、もう飯は炊き始めている頃合だ。寝起きの悪い亜衣も目が覚めて丈ノ進の不在に気づいたかもしれない。
丈ノ進は話を切り上げるように、すっくと立ち上がった。
「お前に手伝ってもらいたいのは山々だが、今言ったように、敵の姿が見えてこない。だから下手に関わるとこの先、お前までどんな危険な目に巻き込むかもわからん。ゆえにお前に頼みたいのはその口をつぐんでおくことだけだ。」
「旦那とあっしの仲でそりゃあ水臭いですぜ。何しろ、旦那はあっしの命の恩人じゃねぇですか。」
次郎吉は随分と親しげに丈ノ進の腕をぽんと叩くから、思いっきり嫌そうな目で睨み返された。
数ヶ月前の強盗事件の折、長屋に逃げ込んできた強盗団の残党は、こともあろうに、ちょうど目の前にいた次郎吉を斬り捨てて退路を得ようとしたのだ。
その狂剣から救ってくれたのは、丈ノ進だった。それ以来、次郎吉は年少である丈ノ進を「旦那。」、と呼び、事あるごとに尻尾を振って擦り寄ってくるようになったのだ。
しかし、次郎吉は単に恩義の為だけに申し出たのではなった。
「ただ、できればきらっと光るお手当てか何かをいただけやすと、あっしのやる気もぐんと伸びるってもんでして・・・」
「端からそれが狙いか。」
「へへへ、是非ともよろしくお願いしやす。」
揉み手をして金をせびるさまは、まさに姑息な鼠そのもので、丈ノ進は汚らわしいものでも見るように眉をひそめた。
この口止め料、もとい協力報酬の増額を当てにして、亜衣を焚き付けるような事を言ったらしい。亜衣を抱けば、丈ノ進が満足するに違いないと思ったのだ。
・・・迷惑な奴め。
それでも丈ノ進は一応、懐を探ってやった。いずれにせよ秘密を打ち明けた以上、次郎吉は手の内に置いておかねばならない。少しくらいの出費で済むなら諦めるしかない。
しかし、生憎、持ち合わせは無かったので家に戻ってからいくばくかの駄賃をやる約束をする。昨日の酒代を埋め合わせるくらいは出してやろうと思う。
「だが、俺もあまり貰っていないから、期待するほど渡せないぞ。」
丈ノ進は憮然とした表情で予め宣告しておいたが、次郎吉はその言葉を全く信用していなかった。
「いやいや、こういう時は切り餅がぽんぽんと並ぶもんでございやしょう。」
切り餅とは25両で一くくりになった小判の束の事。贅沢さえしなければ、1両で夫婦二人は裕に暮らせるご時勢だ。長屋暮らしの庶民にとっては大金といえる。
次郎吉自身は切り餅なんてこれまでただの一度も見た事が無いが、こんな大事の報酬ならば、そのような大きな金も出てくるはずだと思っている。そう考えたからこそ、丈ノ進に自分を売り込んだのだ。
「そうだといいのだがな。」
丈ノ進は肩をすくめ家に向かって歩き始めた。次郎吉も背を丸めて後をついてくる。夜通し遊んでいたのだ。これから家で眠るつもりなのだろう。大きなあくびが一つ漏れた。
・・・金、か。
次郎吉はこれで遊ぶ金にゃ困らねぇや、とほくそ笑んでいるが、丈ノ進は冗談ではなく、本当に僅かな支度金しか貰っていなかった。
大体、そんな金があるなら、とっくの昔に亜衣に着物を買ってやっている。次郎吉の期待が取らぬ狸の皮算用である事は、家の床を剥がして調べてもらってでも納得させるしかないな、と丈ノ進は小さくため息をついた。
「当面は、口をつぐんでいてくれればそれでいいぞ。」