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青は藍より出でて、藍より青し(後編)

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お咲長屋の一番の早起きは丈ノ進である。
いつも夜が白々と明けきる前に起きては木刀の素振り稽古に励む。この時間は夏の暑い時期でも空気が澄んでいるから一番集中できるのだ。
しかし、今日丈ノ進が起きたのはまだ夜と言ってもいいくらいの、本当に早い時刻だった。
衝立の向こうで寝ている亜衣を起こさぬよう身支度を整えるとそっと家を出て、井戸と家の前の僅かな隙間で稽古を始めた。
空にはまだ星が光っている。左半分だけが光った弦月が高いところにいた。
静寂に包まれた闇の中、丈ノ進は喉の奥に押し殺した鋭い気声を発して木刀を振りかぶった。
いろいろな思いが胸のうちには交錯するが、この時間だけは剣の事だけに集中しよう、と心に決め、ひたすら剣を振り続ける。
よく鍛えているので、どれだけ動いても息が乱れる事は無い。少し剣をかじったものが見れば、その体捌きには驚嘆の声を上げるかもしれない。
そのうちにまだ暗い路地を提灯片手にフラフラと歩いてくる小男の姿が、目に留まった。
次郎吉だ。
酒でも入っているのか、博打で快勝したのか、やたらと機嫌がよさそうにしているその口元からは鼻歌まで漏れていた。
次郎吉は最初、自宅の前に人が立っているのに気づくと、借金取りか物取りでも押し入っているのか、と怯えたそぶりを見せたが、それが丈ノ進だと気づくと急に揉み手をして弾んだ足取りで近づいてきた。
寝る前に隣家が不在である事を確認していた丈ノ進は、恐らくいつものように博打だろうと踏んでいた。彼が博打から戻ってくるのは大概夜が開け切る前、と知っていたので、今朝は剣の稽古がてら、待ち伏せしていたのである。
次郎吉は丈ノ進の顔色を伺うように低いところから覗き込み、下卑た笑いを口元に浮かべていた。
「こんな早い時間にどうなさったんでぇ?今朝は稽古もお休みだと思ってやしたぜ。」
「いいから来い。話がある。」
丈ノ進は木刀を携えたまま、次郎吉を連れて長屋を出ると、1町ほど先に行ったところにある神社へ向かった。
昨日の朝、亜衣が地回りたちに襲われた場所だ。気分のいい場所ではないが、どこで誰が聞いているか分からない町中ではとても話が出来ないのでやむを得ない。
それでも現場となった草むらにはさすがに近づきたくも無かったので、丈ノ進は境内の方へまわり、古びた社殿の階段に腰を下ろした。次郎吉もそれに習う。
「説明してもらおうか。貴様、一体どういうつもりだ?」
単刀直入に丈ノ進が問うと、次郎吉は媚びるような薄ら笑いを浮かべた。
「へへへ、あっしは役に立つでしょう。これで旦那もようやく清々しい朝が迎えられたんじゃありゃせんか?」
「昨日、亜衣にわざと余計な事を吹き込んだな。」
「だって、あちらからしだれかかってもらわねぇと、堅物の旦那じゃ自分から手出しできねぇんでしょう?だからこそ、今の今まで悶々と苦しんでこられたわけで・・・」
「・・・全てお見通しと言うわけか。」
丈ノ進が端正な顔立ちを忌々しげに歪めると、次郎吉はしてやったりとばかりに、にんまりと笑った。
「聞こえるはずのものが何も聞こえねぇとそりゃあ、隣人としちゃあ気になりますぜ。いや、最初は亜衣さんに月のものでも来て旦那が手控えているだけかと思ってやしたよ。でも、新世帯(あらぜたい)でこうも夜枯れが続くと、もう異常でしょう。」
随分と暇な男だ。この10日程、毎日ではないかもしれないが、ずっと隣家の夜の営みに聞き耳を立てていたらしい。
元々壁の薄い長屋であるだけに会話が漏れないように亜衣にも十分注意させていたのだが、まさか何も聞こえない事の方に疑念を抱かれるとは思ってもいなかった。
「全て故あっての事だ。亜衣は暗殺者の毒牙から逃れる為に俺の女房を偽って、ここへ来ている。」
丈ノ進は変に隠し立てしても仕方が無いと開き直り、事情をかいつまんで説明した。元々そのつもりで今日は次郎吉をこの人気の無い場所へ連れてきているのだ。
高家旗本のお姫さまの毒殺未遂事件など、ちんけな遊び人の次郎吉には縁の無い世界の話であるし、知れたところでどうなるものでもあるまい、と踏んでいる。あくまで隠し立てして妙に疑いを招き、あちらこちらに吹聴されても迷惑なので、きっちり説明した上で口止めしようと思ったのだ。
丈ノ進の話に、次郎吉は訝しげに眉をひそめた。
「お姫さまが悪い奴に命を狙われているって話はまあ、ありがちかもしれやせんが、そういうお姫さまが身を隠すってぇと、寺とかじゃねぇんですかい?いくらなんでも男の独り暮らしに単身潜り込むってのは無謀すぎやすぜ。」
「俺も確かにそう思う。ただ、こたびは家中に下手人がおるやも知れぬゆえ、縁の寺社にも頼めなかったようだ。」
「ふうん・・・そういうもんなんですかねぇ。」
納得がいかないのか、次郎吉はしきりに首をひねっている。
「まぁ、それだけ身に危険が迫っていたのだと俺は思っている。目の前で母御も亡くなっているしな。いろいろと衝撃も大きかったのだろう。」
一体どんな目的で、誰が命を狙っているのか・・・何一つ分からないだけに亜衣の不安も強いに違いない。
次郎吉は、あぁそうか、と思い出したように手を打った。
「それで、旦那は昨日の連中が暗殺者なのか、確認しておられたんですね。」
「そんなところまで、よく聞いているな、お前は。」
次郎吉の地獄耳にはほとほと呆れ、丈ノ進は頭を抱えた。
どれだけ上手に隠しても、遅かれ早かれ、この男には見抜かれていたのだろうな、と思い知らされる。
「しっかしまぁ、旦那もよくこんな大それた話を引き受けられやしたね。何か縁故のある姫君なんですかい?」
「いや、全く繋がりは無い。ただ断れない筋からの依頼でな。」
逆に言うと、全く縁の無い姫だからこそ預かったとも言える。接点が無いだけに、亜衣を狙っている連中もこんなところにいるのは探しようがないだろう。
「旦那は大垣一刀流の免許皆伝でやすもんね。用心棒ならこれ以上心強いことはねぇ。」
「用心棒と言っても、俺はただ預かっているだけだ。実際、居場所がわれて複数人で押しかけてこられれば、俺一人ではどうしようもないからな。」
丈ノ進も一応、腕には自信があるが、それでも簡素なつくりの長屋で亜衣を守りきれるとは思っていない。たった一人で斬りあったところでその先は目に見えている。
人を隠すなら人の中、という依頼人の意見により強引に引き受けさせられたが、やはりどう考えても、裏店というのはお姫さまを守るのに適した場所ではないのだ。
それゆえ、1にも2にも亜衣の身の上を気取られぬことが肝要、と心得ている。だからこそ、亜衣には本物の妻のように振舞わせているのだ。今は物珍しさから近所の連中も大騒ぎしているが、そのうち皆も慣れることだろう。
本音を言えば、旗本の姫、という身分も内密にしておきたいところだった。しかし、飯もろくに炊けない武家言葉のお姫さまにあまり無理な演技はさせられず、結局、駆け落ちだから実家の事は聞かないでくれ、と説明するにとどめていた。
わかりやした、と次郎吉は大きく頷いた。
「そういうことなら、あっしも協力しやすぜ。あっしがどれだけ役に立つかは見てもらったとおりですから。」