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青は藍より出でて、藍より青し(後編)

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「得体の知れぬ悪人どもを討つ機会を伺う為には、この身を隠し彼らの目を欺くことが肝要です。いつか父上が京よりお戻りになられた時に事の次第をご説明し、下手人を挙げる為にも、今の私は生きながらえて耐え忍ぶしかないのです。」
「・・・・」
「ですが、今朝のような事があれば、私が殿方を知らぬ身である事が公になってしまいます。丈ノ進さまとの仲が偽りであると知れれば、私はここに身を隠す事ができなくなります。」
「・・・それで、予めそれがしに抱かれておくつもりか。」
亜衣が強い覚悟でこの長屋に来ているのは丈ノ進も十分承知していたつもりだったが、こうやって改めて聞かされると胸が詰まる思いがする。
母の仇を討つために、好きでもない、夫でもない男に身を任せると・・・
まだ幼さの多分に残るお姫さまにとって、それがどれだけ悲壮な決意なのか、丈ノ進には察して余りある。
・・・しかし、姫の将来に傷をつけるのを亡くなった者たちが望むだろうか。
何より、そこまで追い詰められた女を抱くのはさすがに躊躇われる。
苦い表情を浮かべる丈ノ進に、亜衣は強張った顔を無理やり微笑ませ、竹刀だこの出来た無骨な手をそっと握り締めた。
「よろしくお願いいたします。ここに置いていただく間は夫婦ですから。それがむしろ普通では無いでしょうか?」
「普通・・・か。」
己の普段の口癖をとられて、丈ノ進は笑い損ねたまま唇を歪めた。
確かに、一つ屋根の下で暮らす匂いたつような美しい女に触れもしないこの状況は普通では無いかもしれない。
重ねられた手から伝わってくる柔らかさとぬくもりが、状況を安易な方へと押し流そうとしていた。
本人がいいと言っているのなら、構わないじゃないか。
こちらだって余計な出費も危険も背負い込まされているのだから、その見返りに体を求めるのも悪い事じゃない。
体を重ねればより夫婦らしく振舞えるかもしれないのだし・・・何より亜衣がそう望んでいるのなら・・・
「・・・しかし、本当に良いのか?」
都合のいい考えが次々に頭の中を駆け巡るのを、なんと嘆かわしい事だ、と嫌悪しているわりに、声に出てきたのはそれらを容認する言葉だった。
亜衣と暮らし始めて10日。
無理に押し殺した劣情のおかげで、日中もやたらと気がたつし、そろそろ我慢の限界でもあったのだ。
「やんごとないお姫さまだ。くれぐれも滅多な事がないように。」、と亜衣を預かった時に念押しされたのを忘れたわけではないが、彼女の方からの誘いである事に、抵抗感はぐっと小さくなっていた。
「途中で嫌と言われても、それがしとて止められぬぞ。」
丈ノ進の声の内に、普段と違う、男としての情欲の高ぶりを感じたのだろう。亜衣は僅かに怯えたようにその肩を狭め、こくんと頷いた。
「はい。丈ノ進さまにとってもその方がよろしいのですよね?」
「・・・え?」
それは意外な言葉だった。
今の言い方では、亜衣が抱かれるのは夫婦を偽る為だけでは無いことになる。
それがあまりに思いがけない事だったので、「それがしっ?!」、と丈ノ進は咄嗟に声を鋭くして問い返してしまった。
亜衣は何か気に触る事を言ってしまったのかと慌て、その小さな口を薄桃色の袂で塞いだが、もう遅い。
「待て。これは、それがしの為なのか?」
「いえ、丈ノ進さまの為と申しますか、その・・・」
口ごもった亜衣だったが、丈ノ進の鋭い切れ長の目はそのまま彼女が誤魔化す事を許さなかった。
握られていたはずの手を逆にぐいっと握り返し、亜衣を手元へ引き寄せると、その小ぶりな顔を覗きこむ。
「はっきり言え。どういうことだ?」
思いのほか間近に迫った男の顔に初心な亜衣はぽっと頬を赤らめ、そして観念したようにそっと口を開いた。
「あの・・・ですから、私に殿方のお気持ちというものはよく分からぬのですが・・・その・・・聞いたところによりますと、殿方というものは間近にいる女を抱かずにおるような夜が続けば、身をよじるような苦痛にさいなまれると・・・」
「・・・・」
「き、聞いた話でございますので、丈ノ進さまがそうかどうかまでは分からぬのですが、ですが、もしそうであれば、私は己の都合ばかりを押し付けて、なんとひどい事をお願いしてしまったのだろうと思いまして・・・」
「・・・・」
まさかお姫さま育ちの亜衣がそこまで気づいているとは思いもよらなかったので、あまりにずばりと言い当てられて愕然とした丈ノ進は言葉を失ってしまった。
しかし、丈ノ進が何も言ってくれないので亜衣はますます慌ててしまう。
「ただ、そういえば、このところ苛々ともなさっておられたようですし、それならば、もしや原因はそこにあるのでは、と愚考いたしまして・・・」
今朝までは、丈ノ進の不機嫌は亜衣のでっち上げた馴れ初め話に腹を立てているゆえなのだ、と思っていた。
あの時、女房たちに囲まれ、適当な嘘を考える暇も無かった亜衣は以前読んだ御伽草子の内容をそのまま口にしてしまった。おかげで丈ノ進は初対面の女に「お前が欲しい。」、などと抜かす、とんでもない女ったらしな男に仕立て上げられてしまったのだ。
そして、亜衣が作り話をした事よりも、「何故、それが嘘だと気づかないのだ。」、と誰一人としてその気障っぷりを疑ってくれなかった事に丈ノ進はひどく傷ついていた。それは間違いない。
しかし、それだけの事で苛つく日が何日も続くとは考えにくい。
「妻として置いて頂いているのに、夜伽をせぬことがそれほどひどい事だと私はこれまで気づきもしませんでした。ですから、あの、今からでも・・・」
「・・・誰から・・・」
最初の驚愕をようやく通り越し、丈ノ進は呻くような低い声で訊ねた。
「え?」
「その話、誰から聞いた?そなたがそんなところまで、思いつくはず無いだろう。」
「次郎吉さんです。今日の昼過ぎにこのお酒を持って見えられて、その時少しお話を・・・」
・・・あいつかっ!
隣人の鼠のような顔を思い浮かべ、丈ノ進は思わず大きな舌打ちを鳴らしてしまった。
たった今まで美味しく飲んでいたのが次郎吉からの差し入れの酒だったと思うと、急に悪酔いしたような気持ち悪さに見舞われる。
どういうことなのだ?
鳴りもしていない箪笥の鐶の音を皆に面白おかしく披露したり、亜衣をこうやってそそのかしたり・・・やはりあの男は何かを企んでいる。
「丈ノ進さま・・・?」
「・・・姫、とりあえず、一つ言わせてもらうと、それがしの事なら心配無用だ。」
次郎吉への追及はひとまず横へ置いておき、今は目の前のお姫さまを言いくるめないといけない。
ここ数日の苛つきを、女日照りの挙句の癇癪と亜衣に思われるのは、丈ノ進の侍としての矜持がどうしても許せなかったのである。
丈ノ進は殊更、憮然とした表情を作ってみせた。
「それがしは今でこそ、浪人して子供相手に手習いの師匠なぞやっているが、それでも侍だ。」
「し、失礼を申し上げました。」
「それに剣も嗜み、何事にも動じないよう精神も鍛えているつもりだ。今朝のチンピラどものように己の劣情に流されるようなマネはせぬ。」
亜衣は怒られている、と感じたのかすっかり恐縮して身を竦めていた。