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青は藍より出でて、藍より青し(後編)

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丈ノ進は亜衣が酌をしてくれた冷酒をくいっと一息にあおった。
今日亜衣が近所の連中から貰った酒だ。丈ノ進は酒に目が無いので、それほど質の高いものではなかったが、今回貰った品の中では、これが一番気に入っていた。
焼けるように熱いものが、喉を通って臓腑に染み渡る。酒には強いので数杯飲んだくらいでは何も変わらないのだが、これで少しは勢いがつく。堅物の丈ノ進には酒の助けでもないと、傷心の女を慰める、などという慣れぬ話はできそうになかった。
「まぁ・・・今朝の事はあまり気にするな。大きな屋敷の内で育ったそなたには、ここはなんと恐ろしいところかと思っただろうが、あのような事は町屋暮らしでも滅多にあることではないし、今後はそれがしも気をつけていくゆえ。」
「・・・丈ノ進さま、そのことでお願いがございます。」
気遣ってくれる丈ノ進の朴訥な優しさに一瞬、微笑んだ亜衣は、持っていたお銚子をそっと膝元におくと、そのまま膝を擦って夫のすぐ脇に座り直した。
その白磁のような面貌が先ほどまでより、若干強張っているように見えて、丈ノ進は訝しげに眉をひそめる。
「どうした、改まって?」
「亜衣を抱いてくださいませ。」
「・・・っ?!」
一瞬、何を言われているのすら分からなかった。
目に見えてたじろぐ丈ノ進に、亜衣はぎこちない所作ながら、その逞しい腕を抱きかかえるように寄り添い、手まで重ねてきた。
己の耳が都合よく聞き間違えたのではない事を丈ノ進は重ねられた肌から直に感じとり、一気に頭が真っ白になるのを覚えた。
箸が力の入らなくなった掌から落ちてコロコロと畳の上を転がっていく。
「ひ、姫?!」
丈ノ進は普段の落ち着きはらった彼からは想像できないほどにうろたえ、どこへ目をやっていいかも分からぬから、無駄に視線を彷徨わせたが、どれだけ周りを見回しても、9尺2間の狭く薄暗い室内にいるのは己と亜衣の二人きりだった。
「これは、一体・・・」
「女の方からこのような事を誘うなど、はしたない事であるとは重々承知しております。ですが、亜衣は心を決めました。丈ノ進さまが良いのです。どうぞお願いいたします。」
大胆な事を言う割に、亜衣の方もかなり緊張しているようだ。上ずった声で一息に言いのけると、その反応を探るべく、恐る恐る丈ノ進を見上げた。
「それとも、あの・・・私のようなおなごではご不満でしょうか?」
上目遣いにこちらを見てくる、その大きな黒い双眸に黒曜石のような煌きがある。ほんのり濡れたそれは、淡い灯明に照らされて、妙に艶めいて見えた。
「いや、不満など・・・」
亜衣の押し殺したような熱い息遣いが肩口に当たるし、小さな胸のふくらみは二の腕に押し当てられているし・・・亜衣は丈ノ進より8つも年下で、これまではまだまだ子供だと思い込むことにしていたが、どうして、もう立派な女ではないか。
丈ノ進は知らぬうちに溢れて来た生唾をごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。
しかし、丈ノ進はありったけの理性を奮い立たせ、ともすればそのまま彼女の小さな肩を押し倒そうとする自分自身を全力で引き止めた。
おかしい。
こちらを見つめてくる亜衣の表情はあまりに堅く、泣き出す寸前のように見えなくも無い。何か思い詰めての所業であることは間違いなかった。
未遂とはいえ、あんな恐ろしい目に合った直後だ。本音では男なんて、見たくも触りたくも無いくらいではないだろうか。
いや、もしかしたら、今朝の恐怖のあまり、若干、自暴自棄になっているのかもしれない。
そうだ、そんな女を無下に押し倒すわけには・・・
「・・・しばし待て。」
かなりの間をおいて、ようやく我を取り戻した丈ノ進が亜衣の肩を掴み、なんとか押し戻す。
最初、そのまま抱きすくめられると思ったのだろう、丈ノ進の手が肩に触れた途端、亜衣は怯えるように体をびくっと震わせたから、やはり何かある、と丈ノ進は確信するに至った。
残念ながら、これは本心よりの事では無いらしい。
「いいから落ち着け。」
「・・・はい。」
丈ノ進に引き剥がされると、亜衣は抗うことなく素直に従った。
丈ノ進は亜衣よりもまず、自分自身を落ち着けるべく、大きく深い息を暗い天井に向かって吐き出した。未だ動悸の治まらぬ胸をなんとか鎮める。
「念を押すまでもないが、我らの仲は偽りのものだ。家の外へ出れば、そのようにも振舞わねばならぬが、この中でまでの演技は不要だ。」
丈ノ進は殊更声を低くして囁いた。
それが10日前に二人が交わした約束だった。
暴漢に襲われたところを助けられ、丈ノ進を慕っての駆け落ち、などは真っ赤な嘘。
そもそも、将軍家の菩提寺である増上寺に、亜衣はともかくとして、一介の浪人風情が近所とはいえ、フラフラと立ち寄るはずもないではないか。
丈ノ進は旗本のお姫さまを自身の妻と偽り、ただ預かっているだけなのだ。
「分かっているな?それがしに体を汚されるようなことがあれば、そなたは今後、嫁いだ先で針の筵に座るような目に合う。それに万が一、ややこでも出来ようものなら、嫁にいくどころか屋敷に戻る事さえままならぬ。」
「将来の事より、今は仇討ちでございます。そのために、私は屋敷を抜け出してまいりました。」
丈ノ進の諭すような言葉に、亜衣は悲愴な面持ちを見せた。
亜衣は旗本、大沢右京太夫の娘だった。
大沢家は高家と呼ばれる、公儀の典礼等を司る格の高い家柄であり、家禄こそ少ないものの、朝廷における官位は従4位下、と並み居る大名より格段に高い。
脇腹ながらそんな大層な家のお姫さまとして育った亜衣に突如として暗い影が襲い掛かってきたのは2ヶ月前の事だった。
最初は着物に毒針が仕込んであることに乳母が気づいた。
その後、膳の毒見をしていた侍女のふくが突然、全身を痙攣させて死に、京へ上っている父から送られた酒にも毒が入っていた。
「母上は、父上からの賜りものとはいえ、何者かが途中で毒を盛るやも知れぬと疑い、私が口をつけようとした杯を代わりに飲み干しました。その直後に母上はその身を震わせ、口から泡を吐いてそのまま・・・」
亜衣はその時の凄惨な光景を脳裏に描いているのか、ぎゅっと膝先を摘んだ。その白い手がわなわなと震えるのを丈ノ進も痛ましげに見つめる。
「無為無策のままで屋敷に座して私が死ねば、母上やふくに合わせる顔がありませぬ。私はなんとしても卑劣な暗殺者を挙げねばならぬのです。」
しかし、誰が亜衣を狙ってきたのかがさっぱりわからない。屋敷の奥深くで過ごしている亜衣にはそこまで人に恨まれる覚えもないし、世継ぎ争いなどの政争に巻き込まれてもいなかった。
真っ先に相談したかった父は、公儀の御用で3月前から京へ上っている。
屋敷の留守を預かる父の正妻、お由良の方は面倒を避けたいのか、毒を盛った下手人を探すどころか、侍女も母も不慮の食中毒で亡くなった、ということにして処理してしまうくらいで、全く当てにならなかった。
事の真相を解明しようにも、お姫さまの亜衣に選べる手段はあまりに少なかったのだ。