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青は藍より出でて、藍より青し(後編)

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こういう時は一緒に居てやればいいのか、そっとしておいたほうがいいのか、どちらがいいのか分からない。
丈ノ進は元々、女の扱いに馴れている方ではないのだ。
しかも荒っぽい男どもに手篭めにされかけ怯えきっている女となれば、手に余る事この上ない。
結局丈ノ進は、お連たち近所の女房連中に後の事を任せて、手習いの講義をしに家を出ていった。手習いは通常、師匠の自宅で行われるが、丈ノ進は狭い長屋住まいなので、大家の自宅の居間を借りて行っているのだ。
昼飯は外で蕎麦を食べ、八つ(午後2時)過ぎにようやく家へ戻ってきても、結局、亜衣の目を避けるように、そそくさと一人で湯屋へと出て行ってしまった。
しかし、その先はさすがにもう出かける用事が無い。
すでに日は傾いて、湯屋から戻る丈ノ進の足元にも細長い影を落としていた。
昼に降った小雨で道はぬかるんでいたが、歩きにくいというほどではない。風呂敷包みを背負った行商人、町娘、近所の大名屋敷に住む勤番侍とその従者、諸々の行き交う人々も皆、家路を急いでいるように見えた。
増上寺の5重の塔も茜色に染まっている。
夕陽に背中を押されて帰ってきた丈ノ進は長屋の一番端にある自宅の腰高障子を開けた。
丈ノ進の家は何の変哲もないごく一般的な割り長屋で、間口が9尺(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)、入ってすぐに竈や水がめの置かれた土間があり、その奥に4畳半の座敷がある。一番端の家なので、側面の壁に小さな窓がついており、他の家よりは風通しもよく、明るくて過ごしやすい。
そして座敷の上にはちょこんと女が座っている。
「今戻った。」
「お帰りなさいませ。」
縫い物をしていた亜衣が顔を上げ、出迎えてくれた。
何故か薄桃色の絣を着ていて、見覚えがないから訝しげに目を細めると、「お連さんがお嬢さんの為に用意していたのを貸してくれたのです。」、と説明してくれた。
亜衣が元々着ていた着物はまだ土間の脇にひっそりと干されたままだった。今日は昼過ぎに雨が降ったりで天気が悪く、昼を過ぎても乾かないから、「いつまでも寝巻きじゃねぇ。」、とお連が見かねて貸してくれたそうだ。
手元の金が足りなくて、亜衣には洗い替え用の着物もまだ買ってやれていなかったのをふと思い出す。
手習いの束脩など僅かなもので、元々、丈ノ進一人が食っていくのでやっとだった。そこへ亜衣が押しかけてきたものだから、正直なところ家計は火の車なのだ。
娘らしい華やかな色合いが亜衣にはよく似合っているが、僅か10日前までは殺風景な男の独り住まいだっただけに、匂い立つような若い女の存在はまばゆすぎ、丈ノ進はここが自分の家では無いかのような錯覚を覚えた。
亜衣は武家の妻らしく、丈ノ進の大小を着物の袂で恭しく受け取ると、奥に片付けた。それから足の踏み場も無いほど散らかしていた縫い物を慌てて片付け始める。
丈ノ進の袷を縫っていたらしい。そういえば来月初日が衣替えだ。この時期になると皆、夏用の単に裏地を縫いつけ始める。昨年まではお連あたりに駄賃を添えて頼んでいたのだが、今年は亜衣がやってくれるらしい。お姫さま育ちの亜衣も縫い物はしっかり習っていたらしく問題なくこなせるようだ。
妻が夫の衣服を整えるのは当然の事なのかもしれないが、それは丈ノ進にとってありがたいようなくすぐったいような、なんとも言えない感覚だった。
「飯の支度はまだしていないのか?」
「それが、今日はいろいろいただいたのです。」
亜衣は部屋の隅からいそいそと惣菜の入った鉢や握り飯、それに徳利まで引っ張り出してきた。二人で食べきれ無い程の量がある。
「全て貰いものか。」
「はい。私が気落ちして食事の準備もできないのでは無いかと、皆案じてくださったようなのです。」
近所で評判の美人妻の災難とあって、話が伝わるのは恐ろしく早かったようだ。そういえば、「ご新造さんはどうだい?」、と湯屋に行ったときも丈ノ進は多くの人に声をかけられた。こういう場合、例え未遂でも悪く伝わるのが一般的だが、丈ノ進が怒りに任せて相手を斬り殺さなかった事が幸いし、皆、亜衣の無事を疑わず、ただ、お姫さま育ちの亜衣が町屋住まいに怯えて屋敷に戻ると言い出さないかだけを心配してくれていた。
そんな事は無い、と丈ノ進には確信があるだけに皆の杞憂はおかしかったが、それでもこれほど多くの人が亜衣を案じてくれるのは彼女がこの町の住人として受け入れられている証拠でもあり、ただただありがたかった。
・・・着物に食べ物に酒まで、まともに声もかけられない丈ノ進より近所の連中の方がよほど亜衣の支えになっているではないか。
端正な面立ちに自嘲を浮かべる丈ノ進だったが、口に出しては「どいつもこいつも、お節介焼きな連中ばかりだな。」、と悪態をついてしまう。
丈ノ進は座敷に上がり、袴を脱いだ。これでも一応侍ゆえ、外では袴を身につけるが、家の中でくつろぐときは、いつも着流しの楽な服装となる。当初、亜衣は着替えも手伝いたがったが、一人でできるから、と断り、一切触らせない事にしている。
なのでその間、亜衣はいただき物の食事を膳に盛っていた。その表情は明るくて、丈ノ進は密かに胸を撫で下ろした。
惣菜の一品一品が亜衣を気遣う心に溢れており、励まされているのだろう。それにいろいろな種類があるのでいつもの質素な食事よりとても華やかな膳となるのも嬉しいようだ。
「私も早くこのくらい作れるようになるといいのですが。」
「まぁ、それは追々だな。何もかもすぐにはできぬのが当たり前だ。」
「お酒は温めましょうか?」
「いや、そのままでいい。」
外は完全に日が暮れ、明かり取りの窓から差し込む僅かな光もなくなった。
丈ノ進が行灯に火を灯した頃、亜衣も食事を盛り付け終え、薄暗い灯明の元、二人向かい合っての食事が始まる。
今宵の亜衣はよくしゃべる。
いや、元々よく口の回る女なのだ。普段も、半太の独楽がよく回っていた、だの、昼に訪ねてきたとっかえべぇが古釘と飴玉を交換してくれた、だのとくだらない話をごちゃごちゃとしている。庶民の暮らしがよほど珍しい故なのだろうが、これまで一人きりの食事に慣れていた丈ノ進にとっては煩い程だった。
でも今日の亜衣は無理やり会話を捻り出しているような感がある。
気丈に振舞おうと彼女なりに心がけているのかもしれない。
・・・俺がもっと気をつけてやるべきだったな。
亜衣が明るく振舞えば振舞うほど、拭いようのない後悔が丈ノ進の胸をえぐる。
「・・・で、少しは落ち着いたか?」
その話題に触れていいのか分からないが、やはり聞かぬわけにもいかない。あらかた食べ終えると、丈ノ進は、ためらいがちに口を開いた。
亜衣は丈ノ進の問いを予測していたのか、屈託の無い笑顔で応じる。
「はい。もうご心配は要りません。助けていただいたおかげで結局何もされずに済みましたし。」
「・・・そうか。」
「丈ノ進さまにもお気を使わせてしまいましたね。」
「いや、それがしは何も・・・」
実は、家の中で二人きりの時は、互いに一人称や二人称が変わる。こんな事、お連や他の長屋の住人たちに知られれば、また寄ってたかっての質問攻めにあう事だろうから絶対に教えられない。