十六夜(いざよい)花火(前編)
その夜、健三は帰って来た。美香は一博の事は隠して「別居したい」と言った。
泣き出したいほどの勇気が要ったが覚悟を決めたら口に出せた。想定外の展開に健三はさらに無口になった。何も言わないものだから健三の意思が読み取れない。健三は作っておいた夕食を食べると、風呂に入り、そのまま寝てしまった。
とうとう、健三は口を開かなかった。美香は誰もいなくなった部屋で小さく泣いた。覚悟を決めた自分に、見切りをつけた家に、いろいろな思い出に胸が痛くなるほどの寂しさが募った。泣く事で未練を消した。
健三が引き止めたり、口論になったりした方が気が楽だったかもしれない。口を開かず、関心も示してくれない健三に諦めがついた。別居は別れの始まりとして言ったつもりだった。まだ出てゆく場所は決めてはいなかったが美香は別れる気持ちを固めた。
翌朝、健三は美香の寝ている部屋をノックすると仕事に出かける姿で美香に聞いた。
「別れたいのは一博のせいか・・・」
美香は返事をせず、頷いた。
「・・・・」健三はそれを見ると何も言わず、そのまま家を出て行った。
寂しさがまた家の中に溢れた。
翌日、美香がパートから帰るとテーブルの上に健三の判を押した離婚届が置いてあった。何も聞かず深い理由も知ろうともせず、面倒な言い合いもせずにこういう事をするのが健三なのだ。
少し腹が立ったが健三のやり方・意思なのだから仕方ない。そういえば健三といる時に私の意思は尊重されたのであろうか、初めての意思の尊重が離婚の了解というのも寂しすぎる。
覚悟をしていたが美香は離婚用紙を見ると涙が出てきた。それは別れの涙でなく、今まで築いてきたものが砂上の楼閣だったようなことが悔しかった。やっと本気で別れようと美香は決心した。
心のどこかに健三が今までの健三でなくガラリと変わり、目の前に現れるのを期待していたのかもしれない。しかし、現実は追い打ちをかけるような冷たい行動だった。美香は一博に会いたくなったが我慢した。
寂しさや辛さを誰かで解決しようとしたら簡単だ。だけど今回は自分でした事だから我慢しようと思った。新しい人生には新しい自分が必要なんだと・・美香は泣く事で変わろうとしていた。
それから健三は家には帰らなかった。一週間分の着替えがないという事は出張なのだろうか。それもわからなかった。
離婚届の用紙はまだ出さないでいた。子供の事や家の事をちゃんと話し合ってからじゃないといい加減すぎるからだ。
寂しくなった家の替わりにうるさい加奈子がやって来る様になった。
健三の実生活が見たいと言い出したり、今までの生活のパターンを聞いたり、熱心に耳を立てて聞いていった。
離婚届を確認するなりニンマリとして作戦を企てる加奈子を見ると、ここにももう一つの恋があるんだなと美香は思った。どんな人生が最高の人生かわからない。ただ人によっては幸せにもなり不幸にもなる。
言えることはそれでも人生は動き続ける。だから誰もが幸せになりたい。幸せを追いかけることがすでに幸せなのだろう。人の人生は一生、何かを追いかける運命なのだろうか。
「ねぇ〜美香。健三は今どこにいるの?」加奈子が聞いてきた。
「さぁ〜」
「知らないの〜?」語尾を上げて疑うように聞いてくる。
「知らないわよ。じゃ、一博は?」
「‥‥さぁ〜、何やってんだか・・・」
二人で笑った。「どっちもどっちね・・・」
「一博んとこへ行ってもいいわよ」加奈子が言った。
「まだ、いいわ・・・」美香はなんだか会いたい気がそがれていた。
「ねぇ〜会社に聞いてくれないかしら。健三がどこにいるのか出張でしょ多分」
「いいわよ。なんで?」美香は加奈子の顔を覗き込みながら聞いた。
「鉄は熱い内に撃てって言うでしょ。沈んだ健三を慰めてあげるの」
「はぁ〜、それはそれは・・・勝手にして頂戴」笑う美香。
「ねぇ、だから聞いてよ。どこに行ったか・・・」
美香は健三の花火工場に電話を掛けると行く先を聞いた。やはり出張中だった。
「今週の日曜日迄、三崎町だって。そこで花火大会があるんだって」
「どこなのそれ」
「新幹線で1時間くらいの所かな。車で3時間?」
「ふ〜〜ん、行けばわかるよね」
「さあ?」
「美香って今まで行った事ないの、健三の花火の現場?」
「嫌いだもん・・・」
美香は花火が嫌いでなく、花火の仕事が嫌いなのだ。そもそも健三が銀行員のままだったらこんな事にはなっていないかもと考えがよぎった。
「行ってどうするつもり?」美香は加奈子に聞いた。
「作戦その一。色仕掛けよ」
「はぁ〜〜?」
「私のナイスバディでたぶらかすの・・・」
「まさか〜・・・」
「本当よ。決めてんだから」
「あの健三だよ・・・出来るの?」
「意外と脆いかもよ・・・」
「・・・・まぁ、難しいと思うけどなびけばいいわね」
「男は女の裸が一番よ」
「はぁ〜」美香は呆れてため息が出た。
男が裸に弱いのはわかる。しかしあの堅物の健三だ。どこから攻略していいか美香には思いつかない。すでに見捨てた健三の事だからどうなろうと構いはしないのだが、このあんぽんたんな加奈子の裸にすぐ飛びつくんだったら今までの自分に自信がなくなる。
美香は健三が落ちないことを願った。どうでもいい健三だがせめて裸に目がくらまないでくれと願った。
「じゃ、私、行って来るから」
加奈子は美香に敬礼のように手を頭の側で振るとニコニコして出て行った。
「えっ、すぐ行くの?」
「ううん、美容室とエステに行って女を磨いてくる。それから勝負下着も」
「ふん」
「ねぇ〜美香、中年の恋って楽しいね・・・」
「・・・・・」どうにでもしなさいと美香は思った。
加奈子はいつものエステと美容院に行き、それから健三のいる三崎町に向かった。
作品名:十六夜(いざよい)花火(前編) 作家名:海野ごはん