十六夜(いざよい)花火(前編)
健三は中井の言葉に気になりはじめた。同じようなことを専務も言っていた。みんなどんな噂をしてるのだろうか。なんか嫌な気分だ。
妻の浮気を知ることよりも、人の家の中のことを言われるのはいい気がしなかった。プライドだろうか。今まで仕事を中心に生活してきたが波風立てずに家庭は普通であり、強いては子供の為、妻の為であったはずだ。自分自身何にも悪いことはしてない筈だった。
健三は少し重たい気分を引きずりながら夏の二車線のアスファルト道を軽トラに乗り運転していた。運転中でもやはり仕事が気になる男だった。大きな橋の手前の信号が赤に変わると車を停車させ、気になる助手席に置いた工程表を見直した。
一博の車も片側2車線の右側を走っていた。助手席では美香がふざけて足を触ってきたりしてきた。
「おいおい、危ないだろ。そんなに触ったら大きくなってしまう」
「もう、どこが〜」美香は楽しそうにいたずらしてくる。
「大事なとこだよ」
「大事なとこってどこかな〜」笑って言う美香。
一博は大きな橋の手前の信号の赤に気が付いてブレーキを踏んで停車した。隣には軽トラが止まっていた。健三の軽トラだった。
最初に気が付いたのは一博だった。
健三だ!
軽トラの運転席で何か書類を見ている。顔がこわばった。
美香は一博の異変に気が付いた。
「ねえ、どうしたの?」
一博は左手の親指を外に向けた。
美香は助手席側の窓の外を見た。健三だった。
心臓が止まった。
健三は工程表の中にまずい部分があるのを見つけた。ちっ、まずいなと舌打ちしながら右側に止まった車を見た。ベンツだった。助手席に美香がいた。その向こうにまっすぐ正面を向いて固まってる一博が見えた。健三もまた心臓が止まった。
信号が青に変わった。一博は急発進で車を飛び出させた。健三は急発進したベンツを見てみんなの噂を思い出した。
信号が青に変わっても健三は発信しようとしなかった。状況を整理していた。
後ろの方から大きなクラクションがビビィーと鳴った。サイドミラーを見ると後ろの若い男が怒鳴っている。健三はサイドブレーキを引いて車を止めるとドアをゆっくり開けて外に出た。
後ろからクラクションを鳴らした男は、窓を開けて怒鳴っていた。健三は後ろの男を睨みつけると、軽トラの荷台からはみ出していたスコップを手に取り頭上に振り上げた。
クラクションの男は健三の振り上げたスコップを見て、びびり、防御の構えを取った。顔面蒼白だ。
健三は男に一瞥をくれると、頭に持ち上げたスコップを乱暴に軽トラの荷台に放り投げた。大きなガシャンという金属音が響いた。それからゆっくり運転席に戻ると静かに車を発進させた。
一博と美香は押し黙ったままフロントガラスに流れる景色を見ることなく見た。重たい空気の中、一博が切り出した。
「まずったな〜、まさか、こんなとこで会うなんて」
正面を向いて運転しながらしゃべる一博は本当にまずい顔をしていた。
「・・・しょうがないんじゃない。事実だし」美香が言う。
女性の開き直りは強い。
内心、心拍数はまだ落ち着いてないのだが、後悔してもしょうがないという気持ちだった。それに、覚悟はしていたことだ。
そもそも健三に愛を持っているのなら、浮気というか他の男性と寝んごろになることはない。遊びじゃないと思った時からいつかこうなることは予想していた。
ただ、やっぱり突然何の前触れもなく健三が目の前に現れたのは、取り繕ってみたものの相当ショックだった。心のどこかに「悪い」という塊を持ってたのだろうか。多分そうだろう。
不倫というものは最初から内緒の隠し事だ。今から不倫しますというのもおかしい。やはり隠し事は、持った方が心に負い目ができる。
「どうしようか・・・」一博は情けなく言う。
「覚悟は決めてたんでしょ。仕方ないじゃない」
「そうだけど・・・」
それから二人はまた沈黙した。お互い頭の中であらゆるパターンをそれぞれシュミレーションしていた。こう言われたらこう言おうとか、こんな質問にはこう答えようとか、予測可能な限りの質疑応答を繰り返す。しかし、思いつきの嘘も真実も泡のように頭の中で現れては消えた。
「とりあえず帰るしかないわね」
美香は一博に「家まで送って」と言った。
「家まで・・・」
「もう、いいわよ。ばれたんだし」
「別に浮気してるってばれてるわけじゃないし、見られただけだろ」
「いいの。一緒にいるだけでどんな関係か誰でも想像するわ。これ以上嘘は言いたくないし。いい潮時だわ」
「潮時って?」
「どうするか、みんな整理しなくちゃいけないってことよ」
「整理・・・?俺もか・・・」
「あなたも多分、覚悟決めなくちゃいけないと思うわ。それとも遊びだったの?」
「・・・・いや、そんなことないんだけど・・・」
一博の煮え切れない態度に少し苛立ったがしょうがないだろ・・。
今の今で、すぐなんでも決めろって言うのは・・。
自分でさえまだどうなるかわからない。健三の出方次第の所も残ってる。美香はため息をついて思った。
「心配しなくていいわよ。私はあなたが好き。それだけあればいいでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
「それとも重たい?」
一博は重たい気分、うれしい気分半分だった。面倒なのが嫌なのだ。いつもあちこち何かしでかしてきては加奈子に言われる。それが面倒で加奈子の前から逃げる。いつもこのパターンだった。もめるのが嫌だと言いながら、もめる原因を自分でこさえてくる。つくずく自分で馬鹿な男だと自覚はしていた。
だけど、今回は美香に「覚悟を決めてる」と言った手前もあるし、それは嘘でもない。美香の「潮時」という言葉が一博の心の中に沁みた。
「いや、大丈夫だ。俺も潮時だろう・・・」
美香の「好き」の言葉は何よりも勇気づけられる。今までの遊びにピリオドを打ついい潮時だ。一博はうろたえた自分を取り戻し、まっすぐ正面を向いて運転した。
ベンツは健三の家、美香の家の前に止まった。20年前、健三が銀行員時代に建てた家だ。かなり古くはなっているが思い出が詰まった木造2階建てだった。
家は人がいてこそ明るくなる。子供が小さい時はこの家の中と、この家の近所が美香にとっての人生のすべてだった。その子供もいなくなり家の中は殺風景になった。
そして、ここ10年は健三と仲良くしたことはなかったけど、それでも思い出はあった。不倫の決着をつければこの家を出て行かなければならないだろう。今朝までの愛着のあった家が手元から離れるのだ。それを想うと悲しい。ためらいもまた出てくる。美香は助手席から降りて我が家を見ると泣けそうになった。
「じゃ、後で報告する」
「殴られないか?」健三が心配した。
「ううん、手を挙げる人じゃないわ‥大丈夫。じゃあ・・・」
美香は後ろ手でドアを閉めると20年目の古くなった自宅に帰った。
一博も車を発車させ、一度だけルームミラーで後方の美香の家を確認した。
作品名:十六夜(いざよい)花火(前編) 作家名:海野ごはん