十六夜(いざよい)花火(前編)
健三の工場はいよいよ夏に向けて忙しくなってきていた。
一度の花火大会で5000発や10000発と膨大な数の花火を上げる。小さい3号玉は中国製の輸入物に頼ったりするが、やはり中玉や大玉は自分の工場で作るのだ。
スターマインは連発打ち上げ花火のことで、どこの会場も今はこれが主流だ。コンピューターで電気点火し計算通りに演出打ち上げていく。大会の打ち合わせや書類申請などで、健三は家を空けることが多くなった。毎年の事だが健三が帰ってこないと夏の到来の予告のようだ。今年は特に子供もいない、美香は一人きりの梅雨を迎えようとしていた。
6月に入ると一博はしょっちゅうメールを入れてくるようになった。
今日は何をしたとか、今何を食べてるとか、どこそこで飲んでるとか報告のようにいちいち入れてくる。美香からは別に催促してないのだが、一博の性格がまめなんだろう。美香も退屈しのぎと会いたさの気持ちついでにメールに返事を返していた。
話し相手・心の相手は健三から一博に完全に変わっていた。
健三の何をしているかは気にならないが一博の事は気になった。やはり心の中に彼を住まわせたことは妻としての過ちの始まりだったかもしれない。
あの日映画館で長いキスを何回も繰り返した日から美香の心は一博の方を向いている。いや、そのずっと前から会話をしなくなった時から実はもう妻として裏切っていたのかもしれない。
一博から二度目のデートの誘いがメールで来た。どこかドライブに行こうという誘いだった。美香はこの間のキスを思い出した。今度会ったらキスだけで済まないかもしれないと思った。メールの返事をした。
“うれしいけど、怖い自分がいます。きっと、あなたはキス以上を今度は求めて来るでしょ。今なら不倫の一歩手前、お遊びだったで引き返すこともできそうだけど、今度会ったら拒めない気がします。だけど、行きたい気持ちが半分・・。
あなたはどう?“
一博からのメールが来た。
“実は正直に言うけど今、僕は美香しか見えてない。ずっと美香を抱きしめたいと思ってた。正直ホテルにも誘いたいと思ってた。でも、お互いまずいよね。わかってる。だけど、抱きたい僕もいる。デートだけじゃすまないよね・・・。
でも会いたい。会ってどうなるかわからないけど会いたい“
一博の正直なメールに美香は嬉しさ半分複雑な気持ちだった。メールを返す。
“不倫にならなきゃいけないかしら?セックスしなくちゃいけないかしら?
このまま仲のいい友達で済まない?“
“いやだ。好きだったら抱き合うのは当たり前だと思う。美香は僕のこと嫌いなの?”
“嫌いじゃない。好き。だけど、もう何年もしてないし、歳だし、夫の事もあるし、うれしいけど踏み出せない”
“じゃ、もう会わない方がいいかもね”一博のメールは冷たかった。
恋愛は不思議なもので冷たくされると燃え上がり、しつこいと嫌になる。こんなにあっさり「会わない」と言われると追いかけたくなる。美香はメールを返した。
“どうしたらいいか迷ってる。一博が決めて”
卑怯なようだけど一度サイコロを一博に戻した。美香は次のメールの返事でまたどうしようか考えることにした。一博からのメールが返ってきた。
“明日の11時 駅前で待ってます。ドライブしよ”これだけだった。
結局、行くか行かないかは美香自身が決めなければならなくなった。行きたい気持ちが強い。だけどきっと抱き合ってしまう。それは美香自身の願望でもあるのだが何かいけない気がする。不倫の文字が頭に浮かんだ。
しかし不倫が裏切りなら、すでに健三を裏切っている。キスは不倫じゃないのか、夫以外を想うことは不倫じゃないのか、どこからが不倫でどこまでは不倫じゃないのか・・・美香はすでに答えが出ているのに自分に言い訳をしていた。
人は道徳から道を外しそうになる時、自身を取り繕う。これはいいわよね、これは・・・だからと理由をつける。そうしないと心が痛いのだ。健三に悪いのか道徳に悪いのかどちらかわからないが痛みがない方法を探し始めた。
行きたい気持ちや会いたい気持ちはなかなか抑えきれるものではない。美香は迷いながら結局行こうと決めた。救いは今日と明日、健三が家にいないことだった。
作品名:十六夜(いざよい)花火(前編) 作家名:海野ごはん