十六夜(いざよい)花火(前編)
定刻通り5時に美香は仕事を終えると、更衣室で白の作業衣を脱いで工場の外に出た。6月前の初夏は少し汗ばむほどだが、冷房が効いた部屋で長く作業していた美香には気持がよかった。
「お〜〜い、美香」聞き覚えのある声がした。一博だった。
あの日の夜の事は今でも毎日考えない日はない美香にとって、ドキリとする一博の登場だった。
一博は車のドアを開けて、美香がいる自転車置き場にやってきた。
「久しぶり〜」笑顔で覗きこむ一博。
「どうしてここが分かったの?」
「聞いてきた。いろんなところから・・・」
あの夜の出来事もあり美香は恥ずかしかった。そんなに顔を覗きこまれたらよけいに恥ずかしい。
「なんか用?」ちょっと冷たいかなと思ったが美香はぶっきらぼうに言った。
「いや、別に…会いたいなぁ〜と思って。ここに来てまずかったか」
「いいわよ、べつに・・」
美香は自転車を出して工場を出ようとした。極力この前みたいな事にはならないように平然とした態度で一博に接した。
「なんか・・冷たいな・・・美香、今度デートしないか」一博がおどけて言う。
「なんで・・」美香は平然と言ったつもりだが心は揺れていた。
「いいじゃん・・別に不倫に誘ってるわけじゃないし・・・」
「不倫するわけないでしょ!」
「何、怒ってんだよ」
「別に・・・」怒ってる訳じゃないが、そう言わないといけない気がした。
「映画に行こうか・・ほら3Dって知ってる? 飛び出して見えるやつ」
「知らない」
「すげ〜面白いんだって…映画とか見る?」
「見ない」
「もったいない、楽しいことはしなくっちゃ・・・」
一博の楽しいことはなんだろ?女性とたくさん遊ぶことなのか?いや、この前は寂しく過ごしていると言ってた。付き合いたい気もするけど、これ以上仲良くなっていいものか?
美香は一応世間の目を気にする普通の主婦なのだと自分に言い聞かせた。
「ねぇ、美香があいてる時でいいからさ、またデートしようよ」
「また?この前は加奈子が言ったから遊んだだけじゃない・・・」
「まっ、そうだけど・・・いいじゃん、たまに映画ぐらい見ないと。健三が怒る?」
「怒ることはないけど・・・」美香は、まず健三に言う筈はないと思った。
「この映画は絶対おすすめ。俺一人で行くのもなんだし…なっ、なっ」
健三は頼み込んできた。
「いつなの?」
「いつでもいい。美香があいてる時に時間は合わせるから」
「仕事は?」
「なんとでもなる・・・というか・・・してくるから」
「わかった」
「携帯に電話するよ」
「携帯なんか持ってないわ」
「えっ、今時・・」
「必要ないもん」
「ふ〜ん、ずいぶん時代とかけ離れた生活してるな」
「そうかも・・・」
美香はただ家と仕事の往復で別に遊びに行くこともなかったから、携帯が必需品とは思わなかった。言われれば珍しいのかもしれない。
「これ、俺の携帯番号。時間ができたら連絡くれ」一博は名刺を美香にくれた。それから
「そう、そう、今は携帯もタダで持てるから持っといた方が便利だぜ」と言うと車の方に向かい後ろ手でバイバイのように手を振った。
井田写真館の一博の名刺は少し若作りの一博の写真が載せてあった。美香はバッグの中から財布を取り出すとその中に入れた。そしてゆっくり自転車をこいで家路に向かった。
健三は夜の10時を過ぎて帰ってきた。相変わらず遅くなった理由も言わないで、黙って美香が用意した夕食を食べ風呂に入り、テレビの前に寝転がった。
美香は一博と会ったことを言おうかどうか迷ったが、やはり何も言わず
「明日も遅いの?」だけ健三に聞いた。
「ああ」健三もそれだけ言うとビールを飲みながら野球ニュースを熱心に見だした。
美香がどこにいようが、何を言おうが関係ないという雰囲気をしていた。そんな健三の姿を見ると美香はついため息をつくようになってしまった。あの日の一博とのキスの日から。
「先に寝るわね」
健三からの返事はなかった。美香は昔、子供部屋として使っていた自分の部屋に入って行った。
作品名:十六夜(いざよい)花火(前編) 作家名:海野ごはん