十六夜(いざよい)花火(前編)
「ごめんごめん、美香って軽いんだな」
一博のその言葉に美香は正気を取り戻した。このまま、その匂いに包まれていたかった自分がいた。それは忘れていた女心を思い出させるものだった。
しかし振り払うように
「も〜〜落ちそうになったじゃない」とそれだけ精一杯口に出した。
「いや〜、あんなに吹っ飛ぶとは、悪かったな」
密着していた体をお互い離し、少し距離を置いた。
沈黙が数秒ほど流れた。
「ねぇ〜 一博って香水つけてるの?」
肩を自分の鼻元に近づけて嗅ぐ仕草をしながら一博は「あ〜、これね」と言った。
「加奈子が勝手に買ってきたんだけど好きだからつけてる」
「ふ〜ん、じゃ加奈ちゃんの趣味なんだ」美香は少し嫉妬を覚えた。
「いや、最近じゃ『あなたがつけたら変なにおいがする』と言って嫌っている」
「じゃつけなきゃいいのに」
「いや俺は好きなんだ。多分あいつが嫌いなのは俺自身さ。俺が嫌いだからすべてが嫌いなんだ」
「そんなこと言っていいの? 仲良くやってるじゃない」
一博が加奈子の悪口を言うと嬉しいのは何故だろうと美香は思った。
きっと嫉妬してるに違いない。
「仮面夫婦さ」一博が言った。
その言葉は美香の心臓に音を立ててドスンと響いた。
仮面をかぶったように本音を出さない生活で夫婦関係を続けていく。いつからなのだろうか。気が付いた時にはお互い顔から仮面をはがせなくなってしまってる。仮面の顔が本当の自分の顔?と錯覚するときもある。こんな付き合い方をするはずじゃなかったと後悔するのだが、いつの間にかかぶった仮面は、当たり障りのない生活に合わせた嘘の仮面になっていた。
「私だって同じよ。夫婦って本音が言える関係だと思ってたけど、いつの間にか嘘をついてしまってる」
「えっ,美香んとこもか?」
「どこでも同じじゃない…でもそれって寂しいよね」
「そうだな。寂しいから外に飲みに行く。そして酔ったおねえちゃんを口説く・・最低だな」
「あら、やっぱりそんなことしてんだ。にしても弱気出しちゃって・・・どうしたの」
「いや、ほんとに本音なんだ。最近は毎日午前様。別に外が面白いわけじゃないけど家じゃ嫌だし、ついつい出てしまう。だけど飲みに行ってもそんなに寂しさは癒されない・・・」
「加奈はやさしくしてくれないの」美香が一番聞きたいところだった。
「最初の頃は優しかった。だけど俺がしょっちゅう浮気するもんだから、もう呆れてるみたいだ」
「そりゃ〜自業自得よ。浮気する人って最低じゃない」
「男はいろんな女を捕まえたいんだよ。狩猟本能さ」
「寂しいのが先なの、その狩猟本能が先なの」美香が笑って聞く。
「どっちも・・・だ。・・・すまん」頭を掻く一博。
「だけど、最近は飲みに行っても全然おもしろくない。同じ歳の男はいないし若い奴らばかりだ。なんでオジンがこんなところに来てんだって顔で見られる」
「行かなきゃいいのに」
「家にはいたくないし、しょうがないだろ」
「帰れない中年族か・・・」
美香は一博が外で飲んでる姿を想像した。若い女の子をはべらかせて飲む姿よりカウンターで一人ぽつんと飲む姿が浮かんだ。帰れなくてさびしい中年男子・・・。
「ねぇ、どんな店に行くの?」
「最近はバーが多いな」
「そこで隣に座ったお姉さんをゲットするわけ?」
「いや、最近はしない。おいおい、何を言わすんだ。もうそんな歳じゃないから、いつでもお餅持ち帰りするってことはないさ。それに誰も寄ってこないよ」
「誰も近寄らないけど、一博がすり寄っていったりして」
「おいおい、もぅ〜、もうそんなパワーはないさ。男もしたがりは45歳までだ」
「したがりって?」
「下半身だけで動く男さ」
「昔の一博ね」
「なんだかきびしいなぁ〜。だけど今はおとなしいもんだ。カウンターで飲むだけ」
「そして帰れない・・・」美香が笑う
「ああ、オカ〜ちゃんが怖い・・ははは」一博は全くその通りだと思った。
作品名:十六夜(いざよい)花火(前編) 作家名:海野ごはん