十七歳の碧い夏、その扉をひらく時 <第一章>
ホームルームが終わった後すぐに、進路指導室の引き戸を開けるとそこには既に小谷が待機していた。
「まずは座って」
小谷は教室の真ん中に置かれた二人掛けのソファーに座っており、俺には目の前にある向かい側のソファーに座るように言った。
「まずはお礼を言わないと」
「お礼?」
「片桐君がいなかったら、私パニックになっていたと思うの」
「俺は何も」
「この前の地震の時……」
「あぁ、そういえば」
うっすらとした記憶が頭の中に蘇ってきた。
「片桐君って実はいい子なんだよね。それがわかって嬉しかった」
小谷の声に被さるように、軽快なメロディーが突然カバンの中から鳴り響いた。
「どうぞ」
俺の顔をちらっと見てから、小谷は部屋の隅まで行くと小声で話し始めた。
「もしもし。はい、お久しぶりです。え? 病院ですか?」
左手で力なく携帯を握り、小谷は浮かない表情で戻ってきた。
「とにかくお礼だけでも伝えられて良かった。私、子どもの時に大きな地震を経験してて。それ以来揺れが怖いの。恥ずかしい話なんだけど、あの時は体が硬直して動かなくなっちゃって」
小谷は照れたように頬を赤く染め、ドアの方へ歩きながら言った。
「今日はもういいから。帰って」
俺は紺色の通学カバンを手に取ると、進路指導室を後にした。外靴に履き替えて校門を出ると、今まさにオレンジ色の太陽が家と家のすき間に沈みこもうとしていた。ひんやりした風が頬をかすめる。まるで俺の乾いた心を突き刺すかのように冷たく、重い。
地震が起こったあの日、俺は無意識に小谷の怯える姿と昔の母さんの姿を重ねていた。母さんは俺の父親に捨てられた後、他の男と付き合い始めた。相里という名のモヤシみたいな男だった。相里はアルバイトでパチンコ屋の店員をしていたが、うちに転がり込んで間もなくヒモ男に成り下がった。母さんはピアノの講師とモデルスクールの講師をしながら、四歳の息子とヒモ男に飯を食わせていた。最初は「不景気だから仕方がないのよね」と相里に同情的だった母さんも、いつの日か仕事を探すよう催促するようになり、口喧嘩が絶えなくなった。その頃からだろうか。相里が母さんに暴力を振るうようになったのは。母さんがぶたれるたびに、蹴られるたびに、俺は叫んだ。「やめろ!」と何度も何度も泣きながら懇願した。母さんの前に立って男から浴びせられるパンチを受け止めようとしたこともあった。でも幼かった俺は簡単に張り倒されてしまった。俺は無力だった。できることといえば、隠れて祈ることだけだった。布団の中で頭から毛布を被り、神様に「ママを助けてください」と毎晩涙が枯れるほどに祈り続けた。
そんなある日、相里はキッチンで料理を作っている母さんに「出て行く」と告げた。俺はドア越しに相里の声を聞き、ついに神様が母さんの味方になってくれたんだと喜びに胸を震わせた。ところが――母さんは予想外の言葉を口にした。
「私を捨てないで。一人にしないで」
母さんは相里の背中にしがみついた。だがそれを肩で振り払うようにして、相里は家を出て行った。カレーの匂いが漂うキッチンで、母さんは顔を床に伏せて大粒の涙を流した。ティッシュ箱が空になってしまうんじゃないかってくらいに、ずっとずっと涙を流し続けた。俺は静かに母さんの背中に回り、後ろから力いっぱい抱きしめた。
「ママは一人じゃない。僕がいるよ。僕が守ってあげるから」
作品名:十七歳の碧い夏、その扉をひらく時 <第一章> 作家名:朝木いろは