かにとらいおん
大きな真っ赤な夕陽が 水面を染めていきます。
ライオンは、立ち上がると頭を下げ、カニを鼻先で押しました。
知っているかのように柔らかく 軽く。『水にお帰り』と言っているかのように 押しました。
カニは、大きな方の鋏を持ち上げると、ライオンの口先を挟みました。
痛くないように、優しく。『さっきはごめんね』と言っているかのように 挟みました。
ライオンは、来た道に 向き直りました。草原に 帰ります。
カニは、ライオンの足元を細やかな足取りで歩き回りました。
ライオンは、大きな口を開け、吼える仕草を見せ、歩き出しました。
カニは、ライオンが草原に向かい、見えなくなるまで その後ろ姿を見送っていました。
暗くなる草原。其処に住むものたちの眼光が、闇に浮かんでいきます。
ライオンといえども その恐怖は感じずにはいられません。
さきほどまでの 穏やかな表情は、もうありません。ここにあるのは、生き抜くための力と 凛と構えた『百獣の王』の姿です。縄張りまで、辿り着かなくてはなりません。
守るべきものが、待っています。連れ合いは、狩りに出なくてはなりません。戯れ遊ぶ幼獣を静かにさせておかなくてはいけません。
ほどなくして、ライオンは 草原と岩場の間の縄張りに戻りました。
幼獣を、草原に隠し、連れ合いは、狩りに出た後でした。
空を、見上げます。星が煌めきます。耳に、水音が残っています。陽射しに温まった草に寝そべって 物思いに瞼を閉じます。カニを思います。小さな体と大きな勇気。
切られた髭の先が、むずむずと痒い気がしました。
風のにおいが違って感じるのは、その所為だろうか、それとも、水辺で過ごした所為だろうか。
星の煌めきに 水面の輝きを思い浮かべました。ひとりぼっちのカニを想いました。
また、ライオンは、あの水辺に訪れようかと思いながら、夜の明けるのを ただ待っていました。
― 了 ―