濃霧の向こう側に手を伸ばして
キリの料理の手際は極めて良かった。まるで今まで誰かのために夕飯を作る事が日課だったかのように、さっさと野菜を切り刻み、冷蔵庫をざっと眺めて必要な物を取り出して味噌汁を作ったり、棚の中を覗き込んで水切りボウルを見つけると、それを取り出してサラダを作った。小さなちゃぶ台の上はおかずでいっぱいになった。
「キリは料理が得意なんだな」
思ってもないぐらい、感心しきりの声が出る。
「そうでもないよ。食べてくれる人がいなければ絶対作らないし。自分一人のためには絶対に料理なんてしないから」
目尻を下げて笑う。昨日、俺の傍に寄って来た時に感じた、少し寂しそうな薄い笑顔は消え去って、今は目一杯笑っているような気がする。これが通常のキリなのか、昨日の幸が薄そうな感じの笑顔が通常のキリなのか。今の所、俺には判断ができなかった。
「じゃぁさ、うちにいてもいいから、夕飯は作れよ。それが条件な」
「武人、彼女は?」
やにわにそんな事を訊かれて、手から箸が転げ落ちた。
「いないよ、そんなもん」
慌てて箸を拾い、傍にあったティッシュで拭う。「ゴミ」と彼女が手を伸ばして来たので、骨と皮でできたみたいな彼女の手の平にティッシュを乗せると、背後にあるゴミ箱に捨ててくれた。
「私の事、彼女みたいに思えとは言わないけど、家政婦みたいに何でもするから、言ってね」
俺はケタケタ笑って「家政婦かよ」と言うと、彼女も同じように「ご不満ですか?」と笑う。
昼間のうちに、近所の大型スーパーに食料品の買い出しがてら、彼女の部屋着を調達しに行った。ワンピースと下着はそれぞれ三着持って来ているが、部屋着はないというからだ。さすがに俺の服は大き過ぎるから、スーパーの安物でも良いから女物の部屋着を買えと言って買わせた。金は彼女から渡された中から使った。
赤と白のドット柄のパジャマは、安物だけど彼女にとても似合っていた。赤が似合うのは、思っている以上に彼女の顔の作りがしっかりしていて、色に負けていないからだという事に気付く。肌の白さもあるだろう。初めて見たときは捨て猫のようなイメージを抱いたが、今はそれがない。
「シャワーで悪いな。バストイレ同室だと湯船はる気になんねぇから」
彼女は濡れた髪をタオルでゴシゴシと乱暴にこすりながら「いいよ」と言う。俺がドライヤーを持って目の前に差し出すと、びっくりしたようにそれを見て、「ありがとう」と微笑んだ。
「風邪ひかれたら困るし。じゃ、俺シャワー浴びてくるから」
そう言って俺は着替えを一式持って風呂場に入った。
不思議な女だ。昨日と今日では別人のようだ。昨日は感情を殆ど表に出さないように、ずっと口元だけに笑みを貼付けたままで俺に接していたのに、今日、ここにいてもいいと許してからは、人が変わったかのようにケタケタ笑い、表情を変え、まるで今までこの部屋に住んでいたかのようにリラックスしている。
会った事があるのか? 自分で気がついていないだけで、キリは気付いているとか?
思い当たるフシはないのだが、彼女のリラックスした顔を見ていると、昨日や今日知り合った仲のようには思えないのだ。ここに住んでいる俺よりも、彼女のほうがずっとリラックスしている。
そんな事を考えながらシャワーを浴び終え、トイレのフタの上に置いた部屋着に着替える。風呂場の折りたたみ戸をガシャリと開けると、俺は一瞬息を止めてしまった。
ドアのすぐそこに、キリが座っていた。
「何、してんだよこんなとこで」
「人の雰囲気がないと寂しくって、シャワーの音聞いてた」
少し困ったような顔で笑ったキリは「あはは」とこめかみを掻いている。
「うさぎかよ。俺明日仕事なんだからな。家に誰もいなくなるぞ。キリはどっか行くの?」
「行かないよ。武人が帰ってくるの待ってる」
その場に片手をついて立ち上がり、俺を見上げる。
「あっそ。鍵かけないで勝手に出掛けられても困るから、出掛ける日は出掛けるって言えよ」
うん、と呟きながら俺の後ろをついてくる。本当にウサギかなにか、小動物のように思えてくる。
俺はちゃぶ台の前に腰掛けて、ドライヤーのスイッチを入れた。温風に当たる部分の髪を、手櫛でといていく。ドライヤーの向こうで、キリが何か言っているのが口の動きで分かったので、俺はドライヤーを止め「何?」と訊き返す。
「弾き語りはいつ行ってるの?」
「仕事が休みの前日の夜」
それだけ言って、またドライヤーをかけ始めた。俺が弾き語りに行く時、彼女はついてくるのだろうか。昨日の雰囲気を見ている限りでは、俺の歌に興味があるようには見えなかった。だったら何に興味があったんだ?
ドライヤーのコンセントを引き抜くと、まだ熱を持ったままの本体にコードを巻き付けながら「なぁ、何で俺だったの?」と訊ねた。彼女は一瞬目を見開いたかと思うと、それを急速に細めて「そこに、武人がいたからだよ」と言って、昨日のように口元だけで笑う。
「そこにいたって言ってもさ、もしそれがすげー悪いやつで、変態で、変な事されたらどーすんの」
張り付いた笑顔はそのままで、じっと俺を見つめる。その瞳は、やはり少しの寂しさを抱えているように、俺には見えた。
俺は、いくら付き合っている女がいないからといって、昨日知り合ったばかりの彼女をどうにかするつもりはなかったし、彼女だって俺とどうにかなる気はないのだろうという事は分かっていた。しかし、脅しのつもりで彼女の肩をつかむと、押し倒した。まるで何の抵抗もなくその身体は床と平行になり、驚く。もっと驚いたのは、彼女が顔色を一つも変えなかった事だ。
「武人ならそういう乱暴な事しないって分かってたから」
「分かってたって、俺ら知り合い? 俺全然知らないんだけど」
彼女の真上から声を浴びせ、彼女の返事を待ったが、彼女は暫く間を置いてから「私も知らない」と答えた。
「訳わかんねぇ」
俺は彼女をそこに捨て置いて立ち上がると、ドライヤーを棚に置き、押し入れから布団を取り出した。
「あ、私が布団で寝るから」
彼女はそう言うと立ち上がったが、「いいから」と制した。
「俺、朝早いから。食パンがそこの棚の上にあるから、適当に朝ご飯食べて。昼飯も適当に」
言いながら俺は布団を敷き終えると、台所に置いてある歯ブラシを手にして歯を磨き始めた。それを見たキリも鞄からごそごそと歯ブラシを取り出し、「私もここに置いておいてもいい?」と顔を覗き込むので、俺はこくりと頷いた。
俺が口をゆすぎ終わると、キリも同じように口をゆすぎ、それからそのコップに水を汲むと、調理台の上に置いた。俺は何も言わずにこれから繰り広げられる彼女の行動が何なのかを、布団の上からじっと見ていた。
鞄の中から白い袋が三つ程出てきた。更にその中から出て来たのは複数の銀色のシートで、そこから一つずつ、ちゃぶ台の上に押し出している。そのうちの一つが転がって、俺の近くに落ちた。
「何の薬、これ。つーかそれも」
俺は綺麗な青をした薬をテーブルに戻すと訊いた。
「睡眠導入剤とか、抗うつ剤とか、安定剤とか。私、そういう系なんだ、自分では認めたくないけど」
「そういう系ってどういう系だよ」
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち