濃霧の向こう側に手を伸ばして
2
寒さで目が覚める。仕事は休みでも、仕事がある日と殆ど変わらない時間に目が覚めてしまう。不眠の気があるのだろうか。一度ぐっと伸びをして気付く。ベッドの上に座っている、女性に。
「おはよ」
彼女はまるで日常に融け込んでいるみたいにひらりと手を挙げて朝の挨拶をする。
「あぁ、まだいたんですか」
俺は寝癖だらけであろう髪をグシャっと掴み、「いつまでいるつもりですか」とあくびを交えながら無愛想に訊ねる。
「いつまでならいてもいい?」
「何いってんスか、あんた」
俺の言葉にまた「ふふ」と笑い、腹を折っている。
「帰る所がないの、暫くここにいさせて。って言ったらいさせてくれる?」
そこには、昨日と同じ、口元だけに作られた寂しげな薄い笑みが浮かんでいる。彼女の声が甘えに富んだねちっこい声だったら俺は即刻外に追い出すのだが、彼女の澄んだ声を聞くと、本当に彼女は困っているのではないかと錯覚してしまう。俺は困惑して掛け布団を半分に半分に折っていき、これ以上折れなくなった所で「帰る所がないって、じゃあどこから来たんだよ」と反撃した。
「どこからだろう。気付いたら君のギターの前に座ってたから。ねえ、名前教えてよ、桜井君」
面食らったように瞬きをし、自分の苗字を知られている事に一瞬恐怖を覚えたが、そういえば昨日俺のビラを一枚掴んだんだったと思い出す。
「ビラ見たんでしょ。桜井武人。あなたは?」
俺は敷き布団の上にあぐらをかいて、彼女と対面した。
「私は、桐子。キリって呼んでね」
「いや、呼ばないし。つーかもう帰ってください」
俺の声なんて耳に届いていないみたいに、軽い足取りでトイレにたち、それから戻ってくると、俺が座っている布団の隣に座り込んだ。自分のバッグに手を突っ込み、探っている。奥の方から、個性的な柄の財布が出てくる。
「当面のご厄介費」
そう言って、やけに分厚い札入れから数枚の一万円札が出され、布団の上に広がった。
「あの、困るんで、帰ってもらえますか? 金も持って帰ってください。厄介だと思ってるなら余計に帰って下さい」
彼女は俺の声なんて完全に無視して財布をしまい、ベッドに飛び乗ってうつ伏せになると、傍にあったリモコンでテレビをつけて、見始めた。俺は困惑で頭がおかしくなりそうだった。布団に散らばった一万円札は十枚あった。とりあえず一発、溜め息を盛大に吐いて、それから札をひとまとめにしてちゃぶ台に置いて、俺は布団を畳み押し入れに運んだ。今夜はベッドで眠れるだろうかと不安になる。
「あの、キリさん、本当にここにいるつもりですか?」
「さん、はいらないよ。同じ歳だよ、武人君」
年齢が知られている事に驚き、次に口にしようとした言葉が喉につかえる。
「お金だったら沢山あるから。使い切れないぐらい。あと、料理もできるよ。迷惑かけないから」
「いや、もう既に迷惑なんスけど」
彼女に目をやるが、こちらを見る事もせず、ずっと薄く微笑んだままでテレビを見ている。
何を言っても帰りそうもない彼女に「俺、朝飯買ってきます」と告げて上着を引っ掛けてから家を出ようとし、思い出したように引き返した。押し入れの衣装ケースからボーダーのカーディガンを取り出すと「寒いでしょ、着てください。それから勝手に外出ないで下さい」と言って彼女にカーディガンを投げつけた。
「菓子パンですけどいいですか、あとインスタントコーヒーいれますから。飲んだらすぐ帰ってくださいね」
ベッドに向かってそう言う。返事が来ないのは承知の上だった。俺は薬缶で湯を沸かし、コーヒーをいれた。そろそろインスタントコーヒーを買って来なければと頭の中にメモをする。
俺のカーディガンを羽織った彼女、キリはベッドから這うようにしてちゃぶ台まで来て、それから「いただきます」と言って菓子パンの袋を叩いて破り、食べ始めた。破裂音で俺は危うく声を上げそうになった。
彼女に渡したのは百八十センチの俺が着れるようなカーディガンだからサイズがぶかぶかなのは当たり前なのだが、巨大なケープでも掛けたようなシルエットになっていて、彼女の華奢な身体が痛々しかった。
「ねぇ、武人君は仕事してるの?」
「してますよ、今日は休みだけど」
ふーん、と言ってクリームパンを一口かじる。
「キリ、さん、は仕事してないんですか」
「だって私お金あるもん、使い切れないぐらい」
「あっそ」諦めたように俺はそれだけ言い、黙ってパンを食らった。
「ねぇ、同じ歳だから、ため口にしようよ。今日は何が食べたい? とりあえずお昼」
パンを頬張りながら、首を傾げてみせる。細い首は今にも折れそうに見え、そこが限界のように思えてくる。
「あの、本当にここに居座るつもりなの?」
俺はさぞ迷惑そうに言ったつもりなのだけれど、彼女はそんな事は勘定に入れず「居座るつもり」とサラリ言う。
きっと何を言っても、脅しを掛けても、彼女はここに居座るつもりなのだろう。偶然駅の前で歌っていた俺を見て、人畜無害で簡単に部屋にあげてくれそうな顔だとでも思ったのだろうか。もし俺ではなく、もっと乱暴な奴だったら、彼女はレイプでもされていたかも知れないのに。そんな危険性を一切考えていなかったのだろうかと疑問に思う事は次々と湧き出てくる。
ひょんな切欠でうちに来て、きっとひょんな切欠で出て行くんだろう。「気が変わったから出てくね」とか、平気で言ってのけるタイプなのかもしれない。そうに違いない。
タイミングよく、半年前に彼女と別れてから新しい彼女はできていないし、友人が頻繁に訊ねてくるような家でもない。金も払うと言っているぐらいだ、しかも受け取った事になってしまっているし、ある程度は信用しても大丈夫だろう。
「キリ、携帯持ってる?」
キリはクリームパンの最後のひとかけらを口にくわえたまま鞄の中に手を突っ込み、携帯を取り出す。真っ赤な金魚みたいな携帯だった。
「赤、好きなの」
「うん」
最後の一口をもぐもぐとしながら、今度はマグカップに指を引っかけている。
「一応、何かあったときのために電話番号教えろ」
「何かって、何か私が悪い事すると思ってる?」
「分かねぇだろ、そんなの。俺キリの事なんてなんも知らねぇんだぞ」
俺は口を尖らせてそう言い、自分の電話番号を表示させたスマートフォンを彼女に向けた。
「ここにかけて」
彼女は少し伸びた爪が引っかかる音を立てながらキーを操作し、俺のスマートフォンを鳴らした。「きりこ」と入力し、登録する。
「昼は、俺が焼きそばでも作るから。夜はキリが作れ」
彼女は口元にだけ浮かべていた薄い微笑みを、一気に広げてにっこり笑うと「うん」と大きく頷いた。
「キリは暴力団の女だとか、そういうオチはないよな?」
彼女が作った筑前煮の里芋を箸で突き刺して口に運びながらそう訊ねると、可笑しそうに彼女はケタケタ笑った。
「ないよ。多分、武人が心配してるような事は一切ないから、大丈夫」
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち