濃霧の向こう側に手を伸ばして
「何なんですか、俺の家までついて来て、家にあげろ? ストーカーですか? 警察に言いますよ? 通報しますよ? 交番まで行きますか?」
主語が「僕」から「俺」に変わっている事にすら気付かないぐらい、俺は苛立っていた。しかし俺がそう言う間にも口元の笑みは微塵も消さず、「ねぇ」と俺をじっと見る。
「あのさ、ソニックスの今関に、似てるって言われた事あるでしょ?」
俺は驚いて瞠目した。何度か、いや、何度も言われた事がある。ソニックスというバンドのボーカル、今関健司に似ている、と。いや、今になっては「似ていた」になるのかも知れない。
ソニックスは俺が以前拠点にしていた駅で、弾き語り仲間同士でバンドを結成し、のし上がった、いわば俺達の憧れのバンドだ。今関さんは俺よりも五歳ぐらいは年上で、あっという間にメジャーデビューを果たした。今関さんと会話した事は何度もあるし、ライブもいくつか一緒にやった。
「俺達、ほんっと似てるよな」
本人にそう言われたのだ。勿論、自分でも自覚していた。髪型は違えど、顔はそっくりだったのだ。骨格が似ているからなのか、声も似ている。憧れの人に似る事は喜ばしい事ではあるが、同じ音楽の業界で、同じような顔をしていると、どう頑張ったって俺は二番煎じになってしまう。だから、似ている事は嬉しくても他人から「似てるね」と言われる事はあまり嬉しい事ではなかった。
しかし、今ではそんな事を言う人も少なくなった。
今関健司は、一ヶ月程前に自宅で首を吊って死んだ。風呂場の物干棒にネクタイを引っ掛けて死んでいたらしい。横浜の自宅で、家族によって発見されたという。遺書らしい物もあり、自殺と断定された、とテレビのニュースでキャスターが喋っていた。
久しぶりに「似ている」と言われ、俺は意味もなく動揺した。
「に、て、ますけど、それが何なんですか」
「あぁ、眠い」
そう言うと彼女はいきなり棒倒しの棒みたいに凭れ掛かって来た。俺は担いでいたギターを危うく落としそうになりながら、彼女の身体を支えて「ちょぉっとっ!」と少し大きな声を出す。
しかし閉じられた彼女の目蓋は、身体を揺すっても頭を叩いても頬をつねっても開かない。かろうじて、息をしている事は分かる。仕方がないので彼女の身体を引きずるようにして玄関まで歩き、一旦ギターを玄関先に置くと、鍵を開けて部屋に入った。電気を付ける事もままならないまま、彼女を俺のベッドに横たわらせた。スプリングなんてない、布団敷きのベッドだけれど、構わず乱雑に放った。放る事ができる程、軽かった。固いベッドに放った衝撃で目を覚ますかと思ったのだが、身体を仰向けたまま寝息を立てている。
彼女が持っていたはずのナイロンのボストンバッグが見当たらず、一度外に出てみると駐車場に転がっていた。すぐに回収し、ギターと一緒に部屋に持ち込む。
俺はベッドサイドに突っ立ったまま、彼女の寝顔をじっと見つめる。全く見覚えのない顔だった。音楽関係で知り合った人ではない。少ないがついてくれている俺のファンの中にも、この顔はないはずだ。勿論親戚でもない。だとしたら、誰だ? なぜ俺に声を掛け、俺の家について来たんだ?
「もしもーし?」
もう一度身体を揺すってみたけれど、履いていた靴がベッドの足元に転げただけで、起きる気配はなかった。靴を脱がせ忘れていたのかとその時になって気付き、赤いパンプスを玄関に運んで行った。
もしかすると物取りかもしれないと考え、念のため、貴重品は風呂場に持ち込んでシャワーを浴びたが、彼女が動いた形跡はなく、それどころか寝返りすら打っていない。俺は首を傾げながら、来客用の殆ど使った事がない布団を床に敷き、財布を握りしめて横になった。布団はベッドの横のスペースに敷ききれず、端を折るような形になったが、他に寝る場所がないので仕方が無いと諦める。
彼女の鞄の中に身分証明書になるものがあるだろうかと考え、探ってみようかとも思ったが、それこそ物取りのようで気が進まない。
「あ」思い出したように俺は立ち上がり、彼女の足元に丸まっている掛け布団を、肩の辺りまでしっかり掛けてやると、俺は再び布団に横になった。
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち