濃霧の向こう側に手を伸ばして
「何?」
顔を上げた彼女は呆けたような顔をしている。
「ありがとな」
俺の言葉に、きゅっと口角を上げて目を思いっきり細めて、声に出さず頷いた彼女は、飛び切り可愛らしかった。
それから二人で夕飯作りにとりかかった。
「二人でやると、狭いし、武人、邪魔」
そんな事を言われ、結局俺はちゃぶ台に座ってニュースを見ていた。
『次の話題です。ボーカルの今関健司さんの自殺によって活動を休止していた人気バンドのソニックスでしたが、新たなボーカルを迎えて活動を再開する事が今朝、ギターの香山さんへの取材で分かりました。新しいボーカルについては』
あまり観ていたくない話題だった。俺はリモコンを手にすると、チャンネルを変えた。すると画面の右上に「ソニックス」の文字が見えたので、更にチャンネルを替え、最終的にはテレビの電源を切った。
「好きじゃないんだね、ソニックス」
ちゃぶ台に煮物が置かれた。俺は「別にぃ」と放って、付いていた肘を引っ込めた。
「嫌いじゃないけど、ボーカルが死んでさ、新しいボーカル入れるんなら、ソニックスって名前やめたらいいのにと思って。今関さんが作詞作曲するわけでもねーのに」
ソニックスの曲の殆どが、今関さんの作詞作曲だ。今関さん中心で結成されたソニックスが、他人の物になるような気がして、酷く気に入らなかった。
「確かにね」
サラダとみそ汁が置かれ「茄子がダメになりかけてたから今日のみそ汁は茄子いっぱいになった」とぎこちなく笑う。そこには不自然な要素が詰め込まれているのに、俺にはその一つの端も掴めない。
「なぁ、キリはソニックスのファンだったりするの?」
食卓に箸を置く手をやにわに止め、表情を固め「何で」と低い声で問う。俺は全然変な事を訊いたつもりはなくて、彼女の反応に首を傾げた。
「別に何でって言われても、ただ訊いただけ。ほら、うちに来た日に今関さんに似てるとか、俺に言ってたし、ギターの練習してた時もそうだし」
バカみたいに丁寧に箸をテーブルに置くと「そうだっけ」とわざとらしくとぼける。いや、本当に彼女は覚えていないのかも知れない。俺は彼女の精神構造が分からなくなる。またちぐはぐな会話になるのは避けたかったから、「うまそう」と言って俺は食事に手を伸ばした。
「キリはいつ料理覚えたの? 誰かいないと作らないとか言ってたよね」
口に運んだ絹揚げを口の寸前で止めて「そんな事言ったっけ?」とまたとぼける。いや、覚えていないのか。
「私だって一応、人生色々あったから、そりゃ人にご飯を作ってあげる事だって、あったって事だよ」
絹揚げを挟んだままの箸をぶんぶん振っている姿はどこか滑稽で、「早く口に入れろよ」と笑った。
「なぁ、病院はいつぐらいから通ってるの?」
その「病院」が精神科なのか、心療内科なのか知らないが、きっとそのどちらかなのだろうという前提で訊ねた。
「三ヶ月ぐらい、四ヶ月ぐらい? 前からかな」
アルミのパッケージから錠剤を押し出している。その度にテーブルに錠剤が転がる乾いた音が鳴る。病名を訊こうかどうか悩んだが、やめた。訊いた所で俺は何もしてやる事はできない。彼女の事は何も知らないのだ。それに、肝心な事はきっと、彼女は話さないだろう。そんな風に感じていた。
「ねぇ、武人はさ、すっごく寂しくなったりしない? 一人でいる時に何か、自分の中が空っぽで、何か考えようとしても何も浮かんで来なくて、誰も何も自分に近づいてきてくれないみたいな、そんな感じになった事、ない?」
「ないよ、そんな難しい状況」
俺は苦笑しながらそう答えたが、薬をかき集めるキリの顔は大真面目だったから、俺も慌てて笑みを消す。
「キリはそういう事、あんの?」
「武人が仕事に行ってる時とか、武人が眠ってる時とか」
「俺かよ」
我慢ならずにまた苦笑する。今度は彼女も少し笑った。片手を口に押し当てると、口腔内に錠剤がまき散るくぐもった音がする。喉が鳴り、薬が嚥下された事が分かる。俺は布団に入ったまま両手の平を枕にして天井を見つめていた。彼女が俺をまたいでベッドに乗ったので、上半身を起こして、電気の紐を引く。段階的に部屋の中は暗さを増し、オレンジ色になり、一瞬、雨に打たれるキリを思い出した。そして闇を作った。
「おやすみ」
俺の言葉に「うん、おやすみ」と答え、寝返りをするようなもぞもぞとした音がする。寝心地が悪いのか寒いのか、なかなか落ち着かない。
今日はいつもに増して冷えるな、そう思って俺は暗闇に慣れた目で押し入れまで歩いて行き、毛布を一枚取り出した。それをキリの布団の上から掛けてやる。キリがこちらに視線を向けるのが分かった。
「今日、何かやたら冷えるから掛けとけ」
喉が鳴るみたいに小さな声で「うん」と返事をし、壁を向いている。俺は自分の布団に戻ると、寒さから身を守るために小さく丸まった。そして目を閉じた。
しばらくして「ねぇ、起きてる?」とキリの声がする。俺は寒さでなかなか眠りにつけなくて「起きてるよ」と返事をすると、彼女はもぞもぞと動き、こちらを向いた。暗闇に慣れた目と目がかち合う。
「ねぇ、嫌なら嫌って言ってね」
「何が」
冷気が入り込む肩の辺りに、ふんわりと布団を掛け直した時、彼女が口を開いた。
「一緒に、隣で寝て欲しい」
俺は絶句し、暫く無音が続いた。きっと完全な無音ではなく、隣近所から何かしらの音がしていたのかも知れないけれど、それすら感じる隙がないぐらい、俺は何も言えなかった。
それでも「嫌だ」という気持ちは微塵も沸かない。彼女がからっぽになって寂しくなるという難儀な時間が減ればいいと思ったし、俺が彼女に近づけば彼女はもっと色々な事を話してくれるかも知れないとも思った。俺は返事をしないまま枕を持って膝立ちになり、ベッドに近づいた。察した彼女は少し壁際にずれて、俺は少し暖まった布団に入り込んだ。
「ありがとう」
俺は何も言わず、きっとキリには分からなかっただろうけれど、口元に笑みを湛えた。彼女は仰向けの俺に縋るみたいに腕を回す。その身体は、小刻みに震えている。
「寒い、の?」
俺の二の腕の辺りでぶんぶんと首を振っている。暫くその震えがおさまるのを待ったが、止まない。
「怖いとか? 俺の事」
また首を振るのが分かる。俺は身体をキリの方に向けると、棒切れみたいに細くて折れそうな身体を抱き寄せる。
キリは俺の胸の辺りに額を押し付けて、すすり泣きはじめた。忙しい女だ。俺にできる事は限られているから、できる限りの事をして彼女を安心させてやろうと模索する。
彼女の首の辺りに手を回して腕枕の形をとり、更にきつく抱きしめる。
「匂いは、違うんだね」
俺の胸に潰された彼女の声は確かにこう言った。匂いが違う。
「違う? 何と?」
またぶんぶんと首を振って、話をうやむやにする。それで彼女が満足するのならいいだろう。しかし、「匂いは」違う。だったら何は違わないんだ。何は同じで何が違うのか。パズルのヒントがそこに隠されているような気がして、もう少しでそのヒントに手が届きそうな気がした。しかしヒントに手が届いた所で、パズルが解けるわけではないのだけれど。
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち