濃霧の向こう側に手を伸ばして
6
「じゃぁ、気をつけて行けよ、病院」
「うん、いってらっしゃい」
いつものように玄関まで見送りにきたキリは、久しぶりにワンピースを着て、薄ら化粧をしていた。いつもより幾分健康的に見える。今日は予定通り、病院に薬を貰いに行くとの事だ。
「あ、そうだ」
俺は思い出した事があって玄関の呼び鈴を鳴らした。すぐにドアが開き、キリが顔を出す。
「今日、雨が降る予報だから、そこに折りたたみ傘あるから、持ってけ」
靴箱の横に下がっている黒い折り畳み傘を指差して、俺は玄関を閉めた。
「降ってきたよ、桜井ぃ」
まるで俺のせいで雨が降ってきたような口ぶりで先輩にそう言われ、窓の外に目を遣る。霞がかかったような霧雨が降り始めている。
「雨具常備の俺は勝ち組ですよ」
俺の言葉に先輩はケタケタ笑って「俺なんて車だからな、勝ち組のなかの勝ち組だ」と言う。確かに、車なら乗るまでの数秒我慢すれば、あとは雨具なんて持っていなくても小さい部屋に入っているようなものだ。原付は雨具があっても、所詮は雨具。俺のヘルメットはハーフだから、顔が濡れるのは必至だ。だがそんなアナログな感じも気に入っている。雨が降ると最も困るのは、弾き語りの場所が限定されるからだ。駅ビルの一階の、ひさしがある場所というのは数が限られているし、ビルとビルの合間の通路では弾き語りが禁止されている。俺はあの駅では新参者の部類だから、どうしたって雨の日は場所がなくてあぶれてしまうのだ。何しろ、雨の日は人が立ち止まらない。半年前まで弾き語りをしていた駅には大きな歩道橋があった。所々に屋根があり、雨の日はそこで歌っていた。学生は傘をさしてでも聴いていてくれた。
「今日は歌いに行けそうもないですわ」
外を見ていた視線を先輩に移すと「雨の日ぐらい休めよ」と言って苦笑いをしている。
「そうですね、そうしよっかな。じゃ、お先です」
俺はゴアテックスの上下が擦れる音を残して、原付置き場まで歩いた。原付置き場でキリにメールをする。
『帰りますよ』
もちろん返信を待つつもりはないから、スマートフォンをデニムのポケットにしまうと、原付にまたがり、走り出した。
まだ霧雨だった。これから朝まで降り続く予報だ。本降りになる前に家に着こうと、少し速度を上げる。
いつも通り、呼び鈴を鳴らす。しかし中から人が出てくる気配がない。再度呼び鈴を鳴らすが、忍び足みたいに軽い足音がするはずなのに、何の音もしてこない。
まだ帰ってないのかと思い、俺はデニムのポケットからスマートフォンを取り出した。久々の外出で、見たい物が沢山あるのかもしれない。催促するつもりは毛頭なかった。
先程のメールの返信がきていた。時間は、ついさっきだ。
『どこにいるのか分からない 助けて』
どういう事だ? 一抹の不安を胸に抱えつつ、俺はキリの電話番号を表示させ、耳に当てた。呼び出し音がなるとすぐに途切れ、息を吸い込む音がした。
『もしもし武人』
「あ、キリ。どこにいんだよ」
俺は少し苛立ったような声で言うと、向こうでまた、スッと息を吸い込む音がした。
『分かんない、ここ、どこだろう。今ね、学校があるとこにいるんだけど、迷っちゃった』
「は? 何で迷ってんの。駅から真っ直ぐ帰ってきたんじゃねーのかよ。どこに向かった?」
俺はジャケットのフードを被ると雨の中に走り出た。
『市松小学校入り口って交差点に書いてある』
俺は向かおうとした方向とは逆に身体を切り替えし、少し急いで歩いた。
「そこで待ってろ。動くなよ」
電話を切った。そのうち勝手に身体は走り出し、顔が雨に濡れた。薬を飲んで凭れ掛かってきたキリを思い起こすと、時は一刻を争うのではないかと錯覚し、次第に全力疾走へと近づく。息が切れ始めた頃、遠くに濡れそぼったネズミみたいな人影が、街灯を背に立っていた。
街灯に照らされたオレンジ色の雨が、彼女をふんわりと包み込んでいて、その情景はあまりに美しく儚く映り、思わず足を止めてしまった。まるで映画のワンシーンのようで、息さえ止めて見つめた。
思い出したかのように走り寄ると、キリは顔をしかめながらも困ったように笑っていた。カーキのジャケットは雨が浸みて色を濃くしている。フードを飾るファーからは、水がぽたぽたと垂れている。
「何やってんだよ、傘はどーしたんだよ」
「忘れてた」
俺はゴアテックスの上着を脱ぐと、キリのジャケットを脱がせ、代わりにゴアテックスを羽織らせた。俺はキリのジャケットを頭から被る。途端に、雨脚が強くなった。
「こっち側コンビニとかないから、このまま走って帰るぞ」
そう言って俺は地面を蹴った。キリも俺の後ろを走ってついてくる。途中から息を切らせている様子だったが、歩いて帰るには雨脚が強すぎた。俺は少しだけ速度を緩めて彼女の手をとると、それでもキリを走らせた。ちらっと見たキリのワンピースの裾は、雨水でまだら模様を描いていた。
「鍵」
俺がそう言うと、キリは何かを思い出したかのようにびくんと反応し、ショルダーバッグのポケットから慌てて鍵を取り出す。キリの身体側にあったのか、鍵は少し暖かかった。俺はドアを開くと先にキリを玄関に入らせ「上着脱げ」と言った。俺はゴアのパンツを脱ぐ。どちらも雨水に濡れていた。
「脱いだよ」
キリの手にあったゴアジャケットを受け取ると、玄関前で振るって水気を切ってからドアをくぐった。キリは困惑した顔で洗面所の前に突っ立っているから「早く着替えしろ、濡れてんだろ」と急かすと、彼女はまた何かを思い出したみたいにびくんと反応し「うん」と服を取りに向かった。
キリのジャケットは半分以上色が変わってしまったけれど、内側のボアまで水は浸みていなかった。ハンガーに吊るし、鴨居にかけると、ジャケットの重みでハンガーがたわむ。
洗面所で部屋着に着替えたキリは、俯いたまま俺の所に歩いてきて「ごめん、なさい」と呟いた。
「何してたんだよ、あんなとこで。駅と真反対じゃねーか」
キリは小さく頷いて、自分を抱きしめるみたいに腕を回したままベッドに腰掛けた。
「駅出たら雨降ってきたから、家に帰ろうと思ったんだけど、武人はバイクだから、雨大丈夫かなと思って、気付いたらあそこにいた」
タイムスリップでもしたような、彼女の時系列に乗っ取った言い訳を聞き、俺は床に座り込むと、ちゃぶ台に肘をついた。手の平に顔を乗せ「もしかして迎えに行こうとか思ったわけ?」と視線をキリに向けた。キリは俯いたまま「多分そう」と呟く。
がくりと項垂れた俺は、二回三回首を振り「バカか」と飛ばした。言われたキリは「うん、バカなんだと思う」と糞真面目な顔で頷いている。
一度家に帰って、傘をさして迎えに行くという、正常な行動はとれないのだろう。そういう精神構造なのだろう、少なくとも今は。そもそも、原付で出掛けている者を徒歩で迎えに行くという考えが突飛だとも思う。
でも、正直な所、そんな事をされて嫌な気持ちではなかった。俺を迎えに行きたい。雨に濡れたら困るだろう。感情の赴くままに行動してしまう彼女の精神構造なら、こんな風になっても仕方がないのだろう。逆に、俺は彼女に言わなければいけない事があるだろう。
「キリ」
作品名:濃霧の向こう側に手を伸ばして 作家名:はち