篠原 ランチデート
元々、蔡の恋愛対象というのは、女性で、ここのところは、その件の氷の女王様に愛を捧げている。その一環で、たぶん、篠原の保護なんぞやっているのだ。女王様の機嫌を損ねないために。蔡にしてみれば、篠原は愛玩動物と同等の感覚だから、女王様も、それについては文句はないはずだ。
だが、絶対に報われないことを、橘は知っている。その氷の女王様が心を傾ける相手は、若旦那だけだからだ。
「僕に、愛の告白をする人なんていませんよ? 蔡さん。」
その日のランチの席で、僕がそう切り出したら、蔡さんは盛大に噎せた。ぐふぐふと何度か咳をして水を飲んで収まると、蔡さんはニコリと微笑んで首を傾げた。
「ちびちゃんに、おかしなことを吹き込んだのは、橘かしら? 」
「そういう目的だろうと教えてくれたのは、正確にはジョンですが。・・・うちには、そういうのの担当がいますから、僕にところにまで廻ってくることはないと思うので、わざわざ、そういう目的で僕を食事に誘ってくださるなら必要じゃありません。」
「それが目的ではなくて、ちびちゃんに少しでもお肉をつけて、おいしくなっていただきたかったからよ? 」
「食べるつもりですか? 」
「食べるのは雪乃にお任せするわ。たっぷり、おいしくして、雪乃を喜ばせてあげたいの。」
「あまり喜ばないと思うなあ。」
「そうしから? 」
「食べるより死んだほうが、喜ぶような気がしますね。」
「あらあら、独占欲の激しいこと。さすが、雪乃だわ。」
「独占欲? それも違うと思うな。どちらかと言えば、面倒な厄介ごとが終わると喜ぶんじゃないですか? 食べるところ、あまりないから出汁にしかならないだろうし。 」
長いこと、僕の実母からの依頼を、雪乃は忠実に守り続けてくれている。たまに、殺したい、と、言うから、そろそろ飽き飽きしているだろうと感じている。とは言うものの、今は殺されるわけにはいかなくて、お願いして助けてもらっている状態だ。食べたいと言うなら、食べてもらっても、僕は一向に構わない。ただ、今の騒ぎが締結するまで待って欲しいだけだ。まあ、僕なんておいしい食べ物ではないたろう。いろいろなクスリを使っているし、右手は、ほとんどが人工部品のようなものだ。食べるとしたら、太腿ぐらいしか肉がない。
「相変わらずなのね、ちびちゃんも。食べるの意味が、蔡おばちゃんと、ちびちゃんでは違っています? おわかりかしら? 」
「食物として食べるのではないんですか? 他に、食べるに意味がありましたっけ? 」
「性的に。」
「くくくく・・・・それこそありえないですよ、蔡さん。」
しばらく、蔡さんは沈黙してから、話を切り替えた。そういうことは、雪乃は考えない。なんせ、僕の身体なんて、隅々まで知っているのだから。小さい頃、一緒に風呂に入って溺れさせて、実母に強かに怒られたらしい。それを思い出して笑ってしまった。そんな長い付き合いのある人が、今更、僕にどうこうする気などないだろう。
木曜日に曹さんと簡単な打ち合わせをしていたら、時間よりも前に蔡さんが現れた。
「そろそろ切り上げていただけないかしら? 」
「まだ半時間はあると思うんですが? 」
「江河も連れて行くので、打ち合わせは午後からにしてください、曹。さあ、ちびちゃん、蔡おばちゃんと、ごはんを食べましょう。」
片付けも、そこそこに腕を取られる。曹さんは苦笑して手を振って早く行け、と、合図してくれた。
「すいません、では失礼します、曹さん。・・・あの、パッケージングの変更が可能なのか、まず確認を・・」
「ああ、わかってる。そっちは、おまえが帰ってくるまでに確認しとく。」
最初の段階で問題点は、こちらから提示した。その部分が確認できなければ、先には進めない。りんさんが、会議の最初に、その部分を提案したから、その変更後のパッケージについて議論していた。これも、確認が終わらなければ机上の空論だ。
「蔡女史、エアーカーの手配は? 」
「してあるわよ。メインエントランスではなくて、非常口のほうに。それでいいんでしょ? 江河くん。」
「助かります。」
「貸しひとつでいいかしら? 」
「まあ、いいですよ。」
何か打ち合わせはしてあったのか、りんさんが非常口のほうへ歩き出す。途中で、僕らの部屋に立ち寄ってコートを着込んだ。この季節に、コートなしの外出は寒いからだ。ついでに、コートのポケットに義理の母に用意してもらったものも投げ込んだ。食事を奢ってもらっているお礼をしたい、と、言ったら、義理の母が、それなら私が用意してあげる、と、どこからか調達してくれたものだ。お酒にもあうから、大人の女性でも大丈夫だ、と、太鼓判を押していた。
エアーカーに乗せられて、少し走ったところの店の前で停まった。けど、蔡さんが、「待ってね。」 と、自分だけが降りて紙袋を持って戻って来た。それから、さらに三十分も走った植物園で降りた。
「今日はピクニックランチ。さあ、行きましょう。江河、荷物を運んで頂戴。」
紙袋は、りんさんの手に渡った。以前、休憩とかサボりで、よく連れて来られた植物園だ。温室に、ベンチがいくつか配置されているので、そこで、お昼を食べるのだ。懐かしい、と、思い出していたら、ひとつの温室の前に人が居る。
「お待たせいたしました。」
近寄ったら、雪乃だった。制服のままだから、仕事中、抜け出してきたらしい。きっちりと蔡さんが、雪乃に頭を下げると、僕の腕を引いて、雪乃の前に立たせた。
「なんで? 」
「ランチデートしたいって言ったでしょ? 蔡、ランチボックスは? 」
「こちらにございます。帰りは江河に連絡をしてくだされば、ちびちゃんは戻れますので。」
りんさんが持っていた紙袋のひとつを、雪乃に手渡している。
「逃亡してきたの? りんさん。」
「ああ、五月蝿いスズメどもの相手はやってられないからね。植物園のどこかで、俺も食事するから終わったら連絡してくれ。・・・・まさか、雪乃まで出張ってくるとは思わなかった。」
「蔡が勝手なことをするから腹立たしくなっただけよ。・・・じゃあ、時間は少し遅らせたほうが良いのよね? 」
「そうしてくれるかな。休憩時間に突撃されるからさ。就業時間に入ってから戻りたいんだ。そっちは大丈夫なのか? 長官のスケジュール。」
「ええ、あちらもランチ会議だから。どうせ、戻ったら机の上にチョコの山よ? 」
「勝手に置かれているものは諦める。ジョンが出来る限りは阻止してくれるだろう。」
りんさんは、こういうイベントデーは迷惑だと、いつも言う。だから、大概、どこかへ逃亡しているので、今日は、ここに逃亡したらしい。じゃあな、と、勝手に歩いて行くのを見送った。
「あれ? みんなで食べるんじゃないの? 」
「りんさんは孤独を愛する人だから無理よ。さあ、私たちも行きましょうか? 蔡、ありがとう。」
雪乃に手を取られたが、蔡さんはついてこない。
「蔡さんは? 」
「蔡は、これから本庁に戻って仕事なの。」
蔡さんの手にも紙袋はある。忙しい人なので、出向中に溜まった用件があるのだろう。
「一週間、お付き合いありがとう、ちびちゃん。とても楽しかったわ。」
「ちょっと待って。」