日常と異常の境界
神社の裏の森公園は、早い時間帯だと霧が渦を描いている。そして深緑の古都の香りを漂わせる。そのなかでの彼女の踊りは決して綺麗なものではないが、流麗でその舞台にとてもよく合っていた。
何かのハミングも、聴いていて内面に染み込み、心地良い。まるで世界の秘密が垣間見えるような、そんな声音だった。
ねぇ、どうして僕と遊んでくれるの? と、ある日そう訊いてみた。返ってきた答えは、必要なのよ、あなたが……だった。
理由は教えてくれなかった。でも嬉しかった。必要とされているのなら、いくらでもそばにいたい。僕自身、どこまでも優しい『彼女』という存在に、憧れていたこともある。
だが数年後、僕は何も告げることができずに東京へ引っ越し、中学生活の記憶を喪失。あれだけ真剣で切実だった『彼女』への想いも、いつの間にか失われていた。
「あのときのお姉さんが君だったんだね。確か、魅(み)道(どう)福与(ふくよ)……だったよね」
「そうよ、やっと思い出したのね」
彼女のその言葉は、僕の心を哀しみで覆う。
「ごめん。助けてもらってばかりいたのに」
友達が木から転落した日、ただ泣くことしかできなかった僕に「もう大丈夫」と言って、腕をマフラーのように首に巻きつけて抱きしめてくれた。季節が夏だというのに、それは春のような暖かさで気持ち良く、僕は安心して眠気に身と心をゆだねることができたのだ。
「今度の木曜日の零時直前、私の最期の瞬間になるかもしれない。でも、君の呪いを食べれば半永久的に存在することができる。その代価として、君の望みも叶えてあげることができる。
不老不死にだってしてあげることもできるわよ」
木曜日は面接。でも、もっと大切なことが、目の前にある。人生全て賭けても足りない大切なことが、目の前にはあるんだ。
『祟羅(たたら)と吸呪姫(Kyu‐zyu‐ki)』
福与は呪いを与える者ではなく、特定の人の呪いを享受する神様だった。
呪いを喰う神様……。
彼女はそういう類(たぐい)の存在で、好きな異性の呪いを何よりも好物としている。
……付き合ってくれなきゃ、殺してやるから――
あの強迫的な告白はつまり、彼女と付き合わなければ、契約者を何らかの災厄から守ることができないということだ。そして自分自身の死を恐れている表情を隠し持った言葉でもあったのだ。
僕の周りでは不幸の連鎖が続く。近所の人は陰口を言う。「外れ者と裏切り者の子供は災いをもたらす」と。
僕はいるだけで周囲を不幸にする。だったらいっそのこと、僕が消えてしまえばいいのだろう。町の外からの脅威にさらされることもない。みんなが幸せになれる。
僕自身、永遠を手に入れることで、福与と終わりのない一生をともにすることができるかもしれないのだ。
「それがあなたの望みなの? なら、その呪われてしまったような絆を食べてあげる。でも条件として、もう永遠に全てから忘れ去られる。あなたの記憶は戻るかもしれないけれど、代価として全ての人の記憶からあなたが消える」
それでいい。それ以外にもう、道はない。
「もしかしたら、私でさえもあなたのことを忘れるかもしれない。そうなればあなたは、完全に独りになる。あなたが私を裏切ったように、私もあなたを不本意に裏切るかもしれない。本当にそれでいいのね?」と、続けて言いながら、福与は目をスッと細めた。
世界の神秘に満ちた福与の雰囲気に、白い着物が良く似合っている。
僕はそんな彼女を見て陶然(とうぜん)と、木曜日の最後の瞬間に広がる澄んだ夜空へ、視線を移して思った。彼女が僕を忘れるわけがないと。
視界に入る星屑の海がそう思わせたのかもしれない。冴えた月の色を中心に、貴石がつぶつぶと浮いている。この輝く海に浮かぶ地球も、多くの生命に彩(いろど)られているのだろうか。
宇宙に中心があるとするならば、そこから見る景色は如何様(いかよう)なものであろうか。あふれる光が点在し、星々の海を泳ぐ。眩い流れは燦然(さんぜん)たる輝きそのもので僕を覆い尽くすのか。
「僕が幸福に満ちていれば周囲は不幸になり、僕が不幸にならないと周囲は一生不幸のままだ。もうそんなの、嫌なんだ」
この大気に包まれた惑星に、星屑達のエピソードが、燦々(さんさん)として輝いて聴こえる。
「僕の呪いを喰ってほしい。そして君と出会えたころの『良い想い出』を完璧に思い出させてほしい。それ以外に思い残すことはもう、何もない。全て、全て君と見る星空の前に、未練は消えると思うんだ。燃え尽きるんだ。だからみんなから僕を消してほしい」
どこからか、世界の神秘を隠し持つ妙なる旋律が、流麗にたなびく。星屑達の歌声だろうか。福与のハミングと同じようにさえ思えてくる。いや、星屑達の歌声にシンクロしているのが、彼女だ。
異なる星音(せいおん)の気配は、光の粒となって僕達の周りで浮遊する。
「そもそも、居場所なんてない。呪いに満ちた人生なんだから」
もう一度福与を見る。髪の間から覗いた額が、月の斜光で綺麗に浮き彫りにされていた。
福与は僕に近づく。僕の瞳の奥を覗き込み、キスそのものよりも魅惑的な一瞬を長引かせる。
「じゃあ、契約更新(セカンドキス)」と言って彼女は、自分の唇で僕の唇をなぞる。そして彼女は、自らの牙を僕の唇に喰い込ませた。
鋭利な痛みと熱が胸の奥にまで伝わったとき、記憶と永遠というものがどういうものなのか、解った気がした。そして次の瞬間、たまらなく悲しくなった。
なぜなら〝存在〟が記憶と永遠の証明者なのだから。記憶と永遠は何かが消滅した瞬間に死んでしまう。つまり〝存在〟が命のしるしなのだ。
僕は、中学一年生の記憶を取り戻した。記憶が記録という事実に置換されて、現在の僕に追いついてきたのだ。それは、謎に満ちた中学生活を謳歌しているころの、散ってしまった記憶のカケラであった。
初めて着る制服にまだ慣れていないころ、僕は誰にも迷惑がかからないように、グラウンドより図書室にいることにしていた。図書室は静かで、ほとんど生徒がいないからだ。いたとしても高校受験を控えた生徒ばかりで、同級生は教室で友達とすごすか、グラウンドで昼休みを楽しんでいた。若者の純文学離れが深刻化していることを、肌で感じた。
そんなある日、クラスで委員を決定するときだった。僕は人口密度の薄い図書委員に立候補し、他に誰も候補者がいないことに安堵した。しかしそれも束の間、隣の席で図書委員に立候補してしまった村瀬美和子という女子がいた。別の小学校から入学してきた子だ。
この町には当時、小学校はいくつかあるが中学校は一つしかなかった。そのために僕が『祟羅(たたら)』だということを知らない生徒の一人でもあった。
余所者(よそもの)とダム推進派の息子として付けられた、もう一つの名前だ。
女子も女子で、他に候補者がいないから村瀬が自動的に図書委員となった。周囲はあからさまに僕を避けていた。
しかし村瀬だけは、積極的に僕に話しかけてきた。初めての英語の授業の感想、将来の目標、そして芸能の話など。
作品名:日常と異常の境界 作家名:HirokiTouno