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日常と異常の境界

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 数年前までの就職氷河期では、学生はとにかく仕事を求めた。企業はリストラと学生の受け入れ拒否に徹底した。結果、人材不足がますます加速し、路頭に迷う家庭が増え、日本経済に大きな打撃を与えた。加えて税金問題や政府のバラ巻き政策、後手に回った震災の救済措置。そのいくつもの教訓を得ての、企業側が出す、内定ルール違反ぎりぎりの策であった。
『面接の日時を決定したいと思い、お電話させていただきました。今、よろしいでしょうか?』
 僕は、嬉しさを隠しきれずに「はい、大丈夫です!」と、場所もわきまえずに大きくて張りのある声で答えた。図書館の静寂が破られる。周囲の学生が僕を睨む。敵意と憎悪。「何であんな奴が」と、視線で語られているようにも思えた。
 しかし、それは彼らの単なる嫉妬で僕にはどうでもいいことだ。できる人が悪いのではなく、できない人の方が悪いのだ。だから、どう思われようとも、もう恐れることなど何もない。
 システム手帳をリュックから取り出してスケジュールを確認した。
 僕は初めて自分だけの力で、幸せというものを手に入れられる位置に立てたのだ。受験と違ってお金はほとんどかからない。
 すぐに面接の日時が決定した。来週の木曜日だ。







火曜日

 目覚めは、生まれ変わったかのように良好だった。精神が新しく強靭な鋼のようなものになり、身体にすぐ馴染んでいった。そして僕の周囲への世界観は、まるで色彩が変わったかのように今までと違って視えた。
 就職活動というものは、自分独りの力や能力に自信を付けるための儀式だ。
 初めて認められたという、今までになかった明るい気持ちが僕を支配する。周囲の人間を見返すことのできるチャンスだ。
「お前、どんな手を使った?」
 昼休み、いつものように和人と昼食を食べていると、突然訪ねられた。それはノックも予鈴もない、急な目的不明の訪問者のようであった。
「何が?」
 銀縁眼鏡の奥にある瞳が、一瞬だけ僕に不幸を予感させた。
「就職だよ。このご時世に、在学中で仮決定だなんてお前だけだぜ」
 この大学は新築で近代的なくせして敷地が小学校くらいのものだから、噂や情報は瞬時に学内を回る。建築のスローガンは『田舎に最高の学び舎を』であるらしいのだが、裏では若者離れの防止と町の活性化が目的であるのが、僕の思ったことだ。
「人徳だろ?」と、自分の優位性を確認するように言った。
 和人は学内でも有名人だった。銀縁眼鏡と鋭利で知的な顔。そして紅茶やその他の雑学に秀でているためだ。
 僕は正直、疎ましく思っていた。レポートや筆記試験、面接式試験でも僕の上を軽々と行き、誰からも好かれる奴だから。
 和人と口喧嘩をすることはある。しかしなぜか僕から離れない。和人の行為は、高校時代の女の子と同じように、僕を不安定にさせていた。
「まぁ。〝俺が知っている範囲内〟で、お前が初めて自力で手に入れた幸せだ。今までと同じか、それ以上の辛くない人生を送れることを、俺は祈っているよ。けどな、これだけは言っておく。長い人生のなかで、後悔のない選択だけは忘れるなよ」

 



日曜日

 雨夜の神社の森公園で「また会ったね」と、びしょ濡れの僕は、同じようにびしょ濡れの『彼女』に言った。
 四日半かけて考えた最初の言葉にしては、あまりに飾りっ気がないが、それで良いと僕は思う。『彼女』との間には、多くの言葉など無意味だ。遠い昔、交感したのだから。
「また。そう、また出会えた。少しは、何か思い出せた?」
「たぶん、半分くらいは……」
 火曜日の夜から水曜日の朝にかけて、昔の夢を見た。
 まだ僕は世間に対して無力で無防備で、穢れるということを何も知らないころのことだ。
 ただ生きているだけで、自分のなかや周囲の世界に不幸がそこここにつもることに、気づき始めていたばかりのころの夢だ。そして『彼女』と初めて会った日。
 だから今夜、ここに来た。

 春と夏の間のうっとうしい時期も終わりを告げ、夏の気配がいよいよ本格的に感じさせる日曜日。神社で友達と遊んでいた僕。
 友達は木登りの途中、転落して右手首骨折。頭を強く打ち、一時的な記憶喪失になった。
 僕はその場で泣くことしかできなかった。
 そこに散歩中の老夫婦が偶然、僕達を発見した。
「またか。何で神社にいるんだ、このバチあたりめ!」
 蹴り飛ばされる僕。
「本当にこの子がいると、ろくなことがないわね!」
 蹴られたお腹が苦しくて抑えているところを、今度は髪を掴まれて頬を叩かれる。
「本当に苛立たしい子供だ。いったいどういう教育を受ければ、こんな裏切り者ができあがるのか。さっさとこの町から出ていけば、俺達も安心して生活できるのに!」と、今度は胸ぐらを掴まれ、勢いよく突き飛ばされる。服が砂で汚れ、肌には擦り傷がいくつも出来上がる。
「教育はあるけれど、教養はないのよ、この子は」
 その日、彫刻家でもある有名な祈祷師(きとうし)によって作られた神像(しんぞう)に、亀裂が走っていることが分かった。傷は新しいもので、先日の夜に神主が手入れしたときにはなかったそうだ。
 その本殿に祭られている神像が泣いていた。まるで数種類の複雑な不幸の歯車同士が、タイミングを見計らってぴたりと嚙み合い、痛(いた)めつけるかのように。
 これからも不幸は続くと、暗示しているようだと町の人達は話すようになった。
 ――どうして僕は、普通ではいられないのだろう。もう、たった一人の友達さえも、失ってしまった。
 僕のための居場所と幸せは、この世界のどこにも用意されてはいないのか。そう思ったときだ。木陰で涼んでいる人が、水たまりの視界に入った。
 彼女の真っ直ぐな眼差しは僕を捉えていて、哀しみに満ちていた。なぜか僕は目をそらすことができない。
 緑の下でユラユラと微(かす)かに揺れながら、人の姿をしたシルエットが僕に近づく。
「もう、誰も傷つけたくないの?」と、白の着物姿のお姉さんは言った。
「うん」と声に出しながら頷く。そして彼女を観察してみた。
 目はくっきりとした二重で、眉毛とともに綺麗なラインを描いている。しかし彼女の美しさも、涙で霞んでしまっている視界では、それ以上、上手に認識することができなかった。
「そう、なら守ってあげる。でもこれは契約よ。いいわね?」
 なぜか、当たり前のように僕は頷くことができた。そうすることが正しいと、予(あらかじ)め分かっていたかのように。
 彼女は「じゃあ」と言って唇を近づけ、僕に契約(キス)をした。彼女の温もりを、唇を通して感じた。とても気持ちの良いものだった。春の麗らかな陽射しを全身で浴びているような、そんな感触だった。
 
 次の日から僕は、周りに不幸をばらまかないように彼女とだけ遊んだ。それが僕の普通だった。なぜか彼女といると、不幸は影のなかに隠れたままで、僕が視る世界の景色は歪まずに薄れない。
 ただ、早朝でも外を歩けば散歩中の人達のひそひそ声が僕のすぐ後ろを付いて歩く。それでも目的地に辿り着くと、僕は安心することができた。
作品名:日常と異常の境界 作家名:HirokiTouno