日常と異常の境界
和人の言葉をほとんど聞かずに、僕は好きだった女性のことを記憶から検索し、ブラジルサントスのコーヒーを喉に通した。
和人がバイトの時間となったので、僕も学生食堂を出て、様々な学生達が持つ自由を横目で見やる。その過程で、学園祭の告知がされている掲示板が、視線に引っ掛かった。みんなが浮足立つのは、学園祭のせいでもある。
別に僕だけが不幸とか、不自由だとか言うつもりはない。ただ、なぜ僕が世界に選ばれているかのように、親切から遠ざけられているのだろうと、そう思っているだけだ。
一つ息を吐き、歩を進めた。学生食堂から大学を周回するような並木道を歩くと、数種類の図書館が見えてきた。
脳科学部の僕は、民俗学の図書館は初めてだ。失った中学三年間の記憶を取り戻すために入学した。その三年間は、僕にとって大切な何かがあると、なぜか感じているからだ。
図書館の入り口で学生証を端末機にかざし、ゲートを通る。真っ白で無機的な空間が真っ直ぐに伸び、奥には同じ白色のエレベーターがある。エレベーターに乗って三階で降りた。そしてこの町の歴史に関する文献を漁っていく。だが、伝承まで載っている文献は、たったの一冊しか見つからなかった。
そこから得られた情報は、
『人を呪わば穴二つ。しかし呪いを喰う者あり。その者は世界のカケラとして存在し、人々を救いへ導くが、その代償は高くつく。
永遠という責めを負う。
その者を失望させれば世界に〝記録〟が消去される。
世界に嫌われるようなことがあれば、そのものがどのような姿形であれ、不幸が大なり小なり影となり、忍び込む。やがてそのものの周囲へ広がり、全体が蝕まれていく。
呪いを喰う者に寿命が生じてしまう。
呪いを喰う者の限界を超える救いを求めれば、ともども不幸になる』
だった。
何かが胸の奥で、記憶をひっかけるような感覚がやってくる。まるでさざ波のように、失ったものが近寄ってくるようにも思えた。だが、自分の記憶を検索しようにも、夜に見る夢を思い出すかのごとく霧散し、掴みとれなくなってしまった。
僕は文献を閉じ、テーブルへ乱雑に放り投げた。
たったこれだけの情報では、どうしようもない。この町の伝承がどんなものなのかはっきりと分かれば、僕の失われた記憶の糸をたぐることができるかもしれないという、期待もあったのに。
東京にいた三年間、僕は失った何かを思い出すために、暗い気持ちの迷宮から脱するために、精神科に通院していた。
同行者は、必ず僕の隣で高校生活を楽しんでいた女の子だった。制服を着ているときでも、それ以外のときでも彼女はほぼ必ず僕の隣にいた。学校の教室、病院の待合室、病院の近くにあるカフェレストラン。
下校中にコンビニへ寄って、屋根のあるバス停でジュースを飲んだりアイスを食べたり……。
いったい、僕のどこを気にいったのか。最後まで教えてはくれなかったけれども、彼女は僕の記憶のなかに居続けようとしていた。
しかしどんなに彼女が頑張ろうとも、自室の扉を閉めてコンビニ弁当をあけるたびに、その日の彼女の笑顔が眩しく見え、心苦しい。
そして独りの夜は長く感じられ、それがますます僕を不安定にさせ、日々の記憶を不確実なものにさせていた。
いったい、いつの間に僕の記憶は、こんなに重たいものを背負ってしまったのか。どうして、僕を生き急がせるのだろうか。
主治医の話によれば、記憶は外部とのコミュニケーションで成り立つとされている。刻印・貯蔵・再生・再考の四つがサイクルを成して、三種類の言語を期間記憶に閉じ込めている。そして長い期間に降り積もった記憶が、人生の結果であり、個とその過去を形成すると言っていた。
すなわち、
刻印:目や鼻と耳、口や指先などといった様々な器官から入ってくる外部の情報を、それぞれの器官の神経が電子記号に変換し、回路を辿って脳に書き込むこと。
貯蔵:脳に刻印された情報をプールすること。
再生:貯蔵された情報をロードすること。
再考:再生された過去と、今ある現実を照らし合わせて相違を考察し、新たな情報として脳に刻印すること。
これらに、日常的に使う言語と、理科学系の文明的言語、文化的・宗教的言語の三つの言語が収められていくらしい。そして期間というものがある。瞬間的な直前の記憶、数時間から数日前の記憶、週・月・年以前の記憶だ。
僕にはどうしてか、中学三年間の記憶だけがぽっかりと穴を開けられたように、抜けている。心に染みる言葉もなければ音もなく、救いがあったのかどうかも思い出せない。日々の揺れ動く感情の濁流に流され、消されたのだろうか。とにかく、中学三年間の記憶が、今の僕の現在にはついてこなかったのだ。
日々の揺れ動く感情。不安定な記憶力について、主治医に相談したことは何度もあった。しかし原因は見つからず、結論としては、帰郷してみてはどうかという判断にいたったのだ。
正直、この町へ帰りたくはなかった。東京でいつも視ていた夢の舞台だから。
二つの、ヒトの形をした黒いシルエットに殺される夢。黒い一組の手が口から体内へ忍び込み、残ったもう一組の手は僕の首を絞める。そして内蔵をぐちゃぐちゃにかき混ぜられる夢。いっそのこと、体内の臓器全てを口から吐き出して楽になりたい。しかし口には手が突っ込まれていて、喉も絞められて塞がれているために、吐き出せない。臓器という嘔吐物が喉を通ろうとしては逆流し、再び嘔吐感に苦しむ夢。
舞台は、この町の病院だ。消毒液の臭いが漂う白いベッドの上には少女がいる。少女の顔には白い布が被せられていて、いつものように顔は見えない。
目を覚ましたときには、背後から黒いシルエットが迫ってきているのではないかと、ゾッと寒気がして嘔吐していた。吐き終えたあとでも、身体の中身をかき混ぜられるような感触は、全身にはっきりと残っている。
同級生の彼女が、制服を着ているとき以外に僕の隣にいると、ますます夢の苦しさが勢いを増す。
あとどれだけ苦しめば、僕は解放されるのか――
帰郷してからは視ることはなくなったが、その夢の恐怖だけは、今も頭のなかで鮮鋭に活き続けている。
心が不安定になる予感がし、瞼を閉じて落ち着かせようとする。しばらくそうしていると、知らない番号から電話がかかってきた。
昨日の女の子と意味不明な伝承。心臓を鷲掴みにされるような緊張感に襲われながら電話に出てみると『××株式会社の採用担当です。美坂(みさか)優雅(ゆうや)さんの番号でよろしいでしょうか』と、説明会に参加した外資系企業からだった。外資系企業は、早いところはすでに選考が開始されている。
今の就職事情は最悪で、卒業生達もまだ就職活動を続けている。約千社受けて全滅が今の普通だ。
その一方で、企業側は即戦力になる優秀な若手の取り合いを始め、早めに唾を付けておくようになっていた。金にならない木は早々に切り捨て、その分、金になる木の芽になりそうな、ほんのわずかな学生の確保に努めている。
「はい、美坂です。お世話になっております」
作品名:日常と異常の境界 作家名:HirokiTouno