日常と異常の境界
その大木の下にいる少女。彼女が歌いながら踊っているからだろうか。雨に打たれながらのその踊りは、決して綺麗なものではなかった。森全体の土はぬかるんでいて、雨を縫うように強い風が流れている。それでも彼女の踊りは、この舞台にとてもよく合っていると、そう思えた。植物達の呼吸や、雨の日独特の臭いを帯びた空気が、彼女の踊りに合わせているようだった。
ふと、彼女は足を止めて、僕の方に顔を向けた。
瞬間に雨があがる。雲が流れていく。鋭い月の斜光が雲を突き破り、きらめき、そして彼女を照らしだす。
いきなり目の前に現れる、くっきりとした綺麗な瞳、絵筆で描き流されたような目の輪郭、撫で肩までの柔らかそうな髪が、世界の裏側にある神秘やその秘密のパーツのように思えた。
どこかの学校の制服を着た彼女は、僕の方を向いて言う。
「やっと見つけた。あのときと同じように、やっぱり暗い眼が危(あや)ういね」と、シルクのようになめらかで、ささやくような声音で。
鋭い月明かりで照らされた雫がキラキラと輝き、彼女の髪が一層美しく見える。
どこかで会っただろうか?
風邪、ひくよ? としか、今の僕には言えなかった。
彼女は黙ったまま、身体もこちらへ向けた。
しばらく、緊張が沈黙を呼び、呼ばれた沈黙が緊張を生む。
僕がその場を離れようかどうか、迷い始めた瞬間に「付き合ってくれなきゃ、殺してやるから」と、細い視線で睨まれた。
雲がまた月を隠す。ひやりとした夜風が、鋭利な刃物のように僕の背中を突き刺し、身体が震えた。
月曜日
梅雨の暇(いとま)というものは、世代に関係なく心が晴れて軽くなるものだが、特に、大学構内は麗らかな陽気に包まれて、色とりどりの春服をまとった学生達で賑わっていた。
「この町の伝承だな」と、和人(かずと)は陽だまりのテラスで言う。
え? と、僕は目の前の席にいる人物に顔を戻した。
和人というのは、ゼミの唯一の友達で、彼も例外なく、黒の薄い長袖とブルージーンズという格好で、自分なりの春を表現している。
「そんなもの、あったか?」
目の前の銀縁眼鏡をかけ、鋭利な顔立ちをしている友達は、わざとらしく呆れ顔をつくった。
「おまえ、知らないのかよ。地元住民なのに」
それから、ティーカップを置き皿ごと持ち上げ、ダージリンをひと口飲んだ。
僕にはもう、中学のころの記憶はない。この町から出ていったころから、記憶が朝霧のように不安定で、不確かなものになったのだ。そして、東京で無為な日々を重ねていくうちに、記憶はより頼りないものとなり、やがて全てが消えた。
「その子を視た奴は呪われるって」
「呪われる?」
神仏なんてもの、僕は絶対に信じていないし、認めてもいない。どちらかと言えば、悪意を持てることが可能な人間というものが、僕は怖い。
「ああ、そうだ。俺なんて、子供のころ木登りしてたら落っこちて、悲惨だったぜ」
僕の思考を、遮(さえぎ)るように和人は続けた。
「そうなんだ」と、返しながら転落くらいで、と僕は思った。
東京で生活していた頃の話だ。
新百合ケ丘駅ホームの階段を降り、各駅停車に乗った。降車駅は登戸で、電車が向ケ丘遊園駅から発車するタイミングに、僕は出口となるドア近くまで移動した。
その時だ。
僕の腹部に、肘を突き付ける女がいた。身長は150センチ半ばで、カジュアルな仕事服を着た二十歳くらいの人だ。
「こいつ、何で隣に来るんだよ」と、言いたげで、つり革に伸びている僕の腕や、その肩に、肘を何度もグイグイと押しやってきた。
僕はむかついて、同じ行為で仕返す。すると「やめてください」と、痴漢に遭ったような表情と声色で、女は言った。
「あんただけじゃないからね、ラッシュの電車が辛いのは」震える声で、僕は静かに言う。
女は、信じられないものを見たように、目を見開いて言った。
「どうしてさっき、移動しなかったんですかぁ? 奥に行けばいいじゃないですか」
「は? 意味わかんねぇ」嘲笑しながら僕が言うと、
「気持ち悪い」女はまた、痴漢されたような不機嫌さで、僕の顔――特に分厚い唇をジッと見て、侮辱した。
キショイ、キモイ……、人の身体的特徴を悪く言うことは、性根が腐った最低の人間がやることだ。
「安心して、登戸で降りるので」僕は無視することに決め、前を向く。
だが、平静に努めるも、腸は煮えくり返っていた。
また、「気持ち悪い」という言葉が聞こえた。その言葉はもう、うんざりだ。
女は舌打ちをしながら、僕がつかまっているつり革を、私に寄越せと、奪おうとした。余計なトラブルの回避のため、しかたなくつり革をゆずる。
「力ないんですね」女は嘲笑した。
どこかで、「アイツ、ダッセー」と、声がした。
トラブル拡大の回避、喧嘩の回避。それがダサいと、言うのだろうか。
そもそも、それほど混雑はしていない。乗車客の何人かは、新聞を小さく折り畳んで読んでいた。読書している人や、英語、その他資格のテキストに集中している人もいる。
人が下手に出ていれば付け上る、無能な社会不適合者が調子乗るな! と、心の中で叫ぶ。
目的地の登戸駅で下車すると、僕より後から降りた支離滅裂な女は、僕を追い越して、周囲の人にぶつかりながら、逃げるように早足で歩いていった。
途中、「お前、何キレてんの?」と、歩く速度に合わせている男性に言われていた。
どうしてだろう。自分の醜悪さや腐った性根といったものが、電車の中で露見されるだけなのに、と僕は思い、それから、もしかして頭の病気ではないだろうかと、疑問にも思った。
もしそうだとすると、事情を理解してあげられないわけでもないが、僕にだってそんな余裕はない。
高校生活最初の夏休み。家庭の事情により、アルバイト初日から、一方的に突っかかれて逆ギレされ、本当に頭にきた。しかも不運なことに、一連の出来事の一部を見ていたアルバイトがいたようで、話を聞いた店長から、バイトを断られた。
そのアルバイトは、僕のクラスメイトで、当時、僕が付き合っていた女子のことで妬んでいる生徒だ。
思い出しただけで、クソむかついてくる……。
イライラしながら帰宅し、洗面所の鏡に映った自分に問いかけた。どうして、僕だけが……、と。
だが、鏡の中の僕を見ていると、そういう対象に選ばれる理由を理解できてしまう自分にも、いつの間にか腹を立てていた。
幼さが残る優しそうな顔は、付け入る隙を相手に与えてしまい、僕は騙され、裏切られる。
だから、僕はもう一つ理解した。
東京は、暴力と穢れが満ちている日本の、縮図だ――。
星を観賞するためにある夜も濁っていて、高層ビルに囲まれて狭く感じられる。
ただ、『彼女』だけは、いつも言っていた。
『東京は、便利で住み心地が良いよ。夜中の安心するデパートやコンビニ、カフェレストランとか。きっと、馴染む日が来るよ、絶対。それまで、私が守るから』
今ごろ、僕のいない東京で、どのような生活をしているのだろうか。
「……の不注意だよ」
作品名:日常と異常の境界 作家名:HirokiTouno