小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

アルナイ

INDEX|4ページ/5ページ|

次のページ前のページ
 

 零とは、一度だけ唇を重ねた。けれどそれ以来殆ど触れ合うことはしなかった。触れた唇も、手と同じくらい、或いはそれ以上に冷たくて、掠めるようなそれは、まるで触れていないかのように感触が微弱だった。触れることをしない理由を、彼は勿論口にすることはなかったが、私も、それを訊ねることはしなかった。問えば彼があの表情をすることは想像に難くないし、もう、問う必要もない気がしたからだ。私はそれでもいいと思っていた。彼がそれを私に告げないのなら、それは彼の決めたことだから仕方のナイことだとも。そんなアリ方もあっていいのではないだろうか。お互いがお互いに対して抱いているものは、きちんと理解しているし、そのことも判っている。きっと、零はこの融けかけた氷のような自分達のアリ方を、私以上に判っていただろう。

 重く、暗い色をした雲が厚く空を覆っているその日、珍しく零が手を差し出してきた。おいでと手招きをしたそれに従って、できるだけ窓に近寄ってみると、彼は窓から乗り出すようにして両腕を伸ばし、私を包んだ。まるで、真冬の氷雨の中に居るような冷たさだった。今日の零はいつにも増して、存在が淡く稀薄であった。
「有、」
「なに」
「俺、往くよ」
 儚さとは裏腹に、しっかりとした、彼の紡ぐ口笛の音のような口調で零は告げた。ぎゅっと、私を包む冷たい感触に力が籠るような幻覚を覚えた。
「行けないって言ってたじゃない」
 氷とも紛う冷たさに、或いは心地良ささえ感じていたのか、瞼を閉じてしまいそうになった私は、彼の腕を解くように少しだけ、窓から離れる。近くで見つめた彼は、キッと吊り上がったきつい目をして、真っ直ぐと射抜くように私を見つめ返していた。この人は決断してしまったのだ。そう、改めて実感した私の表情が揺らいだのか、零はいつもの鷹揚な表情を湛え、そっと私の髪を梳いた。
「ひとつだけ、往ける処がある。というか往かなきゃいけない処、かな」
おどけて軽く視線を斜め上に上げて、考える素振りをして見せるけれど、私が佇まいを変える気がないのが判ると、ふう、と息を一つ吐いた。聞き分けのない子供に言い聞かせるように、窓を隔ててではあるけれど、確かに並んだら私なんか視界に入らないかもしれない、私には埋めることのできない差を縮めるように身を屈める。
「有、お前は俺と居るべきじゃない」
「何故」
「本来なら、アル筈がナイからだ」
 決めてしまった。決めてしまったから、零はこれまで噤んできた彼の本質に関わるであろうことを話そうとしてくれているのだ。きっと、これが、さいごだから。
「ホントは、俺は此処に長居するつもりはなかったんだ」
「すぐに、往くべき処へ往こうとしてたの?」
「うん。でも、有り得ない筈なのに、有と会った」
「私が『有』だからかもね」
 くすりと笑うと、零も目を細める。
「会ってしまったから、此処から離れたくなくなった。有ともっと居たいと、俺は何もナイ筈なのに思うようになってた」
 どうして、会ってしまったんだろう。きっと、彼はそんなことを思っているに違いない。だけど、私達は出会ってしまった。その事実は揺らぐことなく、ただ確然と私達の間にアルのだ。
「だけど、それじゃダメだから。有にとっては何の意味も成さナイから。だから、俺は往くよ」

  
 歩んでゆくべき 道はナイ
 行き先を照らす 灯火もナイ
 それならきっと ここにアル意味も
 ナイナイナイ アレ? 息苦しい
 ねェ 君の視界に私なんて ナイナイナイ?


「ナイ、ナイ、ダメ、って零、まるで『アルナイ』みたい」
 私と零を、会う筈のない私達を繋いだ『アルナイ』。私と零は何処までもアルナイだった。私の言葉に、零はふっと自嘲するように薄く笑った。とても、哀しい笑顔だった。
「確かにそうだな」
「会った切欠も、『アルナイ』だったね」
「俺達は、『アルナイ』だったのかもしれないな」


  気を引く器量も 目を引く色気も 手にする力も
  ナイナイ尽くしの ダメダメ尽くしの 私だけど
  それでもいいから一緒に泣こう と 君はナイて

  私を掴まえた


 ねぇ、零。私達は『アルナイ』だけど、どっちが『私』? どっちが『君』?
 自分できちんと決めたクセに、私が傷を負う代わりのように、自分が傷付いている零に、とてもじゃないけどそんなことは訊けなかった。訊かなくたって判る気がした。だって私と彼だから。どうしたって『アルナイ』な私達だから。
「有、ナイナイ尽くしの俺だけど、有は欲しくて欲しくて喉から手が出る望みだよ」
それが、さいごだった。零はじゃあなとばかりに、さいごに口付けの冷たさと、それと真逆の私が最初に惹かれた笑顔を残して往った。
 『アルナイ』な二人。『私』は、『ナイ』のは零だった。


 翌日、普段よりも早い時間に帰路につけた私は、つい早足になって、いつもの癖で零のアパートの窓の前に来てしまった。そこからは、あの軽くて芯のある口笛はもう響いてはいなかった。こつん、と窓を叩いてみても、私を受け入れてくれるようにいつもは開いたそこは、今はまるで拒むように閉ざされたままだった。
(嗚呼、ホントに往ってしまったんだな)
何をするでもなく、彼が出てくるわけもないのに、ぼんやりと窓を見つめていると、いつの間にかいつだったか、彼と出会うもう一つの切欠だった黒猫が足元にやって来て、落ち着くようにしなやかな体を丸めた。。ふっと視線を猫に下した時、ジャリッと背後で音がした。慌てて携帯を出そうとする、いつのまにかついてしまった癖に、自分を笑い飛ばしてやりたくなった。だけど、零れたのは嘲笑ではなく涙一粒だった。
「何か、ご用ですか?」
 音のした方を振り返ってみると、アパートの入口の前に、箒と塵取りを持った、年配の女性が立っていた。
「あ、……此処の、管理人さんですか」
 掃除道具からそうだろうと察して訊ねてみると、女性は一瞬だけ怪訝そうに眉を潜めたが、「はい」と頷いた。
「あの、此処の部屋に住んでた男の子なんですが」
 あれだけの頻度で此処を訪れていたのに、管理人さんと会うのは初めてだった。今日は普段よりも早い時間だ。もしかしたら、いつも此処へ来ていた時間には、業務を終えて帰っていたのかもしれない。控えめに訊ねてみると、彼女ははっとした様子で、早足で私に近寄った。彼女が近寄ってきても、足元の黒猫はおとなしく身を丸めたままだった。
「貴女、彼の彼女さん?」
「え、っと……」
 何と答えるべきか、思い迷って曖昧な返事をしても、彼女はさして気にしたふうもなく、哀傷的な表情で言葉を続けた。
「本当に残念だったわね…。あんなに若いのに、事故だなんて」
「あ……」
 思わず漏らした声に、管理人さんは一度言葉を切った。私の表情が彼女の目にどう映ったかは定かではないが、彼女は一つ息を吐いて、それまでの憐れむようなものから表情を一転させ、母親を思わせるような優しげで情け深い顔をして、包み込むように私を見つめた。
「彼ね、一度隣の部屋の人から『口笛が煩い』って苦情がきたことがあったの」
作品名:アルナイ 作家名:@望