アルナイ
彼は自分のことをよく話してくれた。彼という人間がどういうものなのか知る人を残すかのように、たくさん話してくれた。そして同じくらい、私に色々なことを訊ねてきた。私という人間を、彼が自分を教えるのと同じくらい知ろうとするかのように。だから、私も彼にたくさん訊ねた。私も、彼を知りたかったから。時々見せる、あの息苦しそうな表情の理由に近付いてみたかったから。しかし、多くを話してくれる零は、彼の本質に触れるようなことは語ってくれなかった。
「そうやってさぁ、いっつも私をからかうけど、零はどうなわけ?」
「何がだよ」
「身長」
数日前にそろそろ飽きたか、なんて言った零は、そんな言葉はなかったものかのように嬉しくない恒例行事を続けていた。身長のことでいじられるのは慣れていることとはいえ、毎回やられるとなると文句の一つでも言いたくなるもんだ。言ったところで、彼が素直に聞き入れてくれるとは思えないが。
「何、有ってば仕返しでもしたいのか」
「別に」
そういう気持ちが全くないわけではないが、本人から言われると肯定するのも癪でそっぽを向いてみるけど、案の定零は何も気にかけた様子はなく、寧ろ可笑しそうに微かに笑い声を漏らしている。
「言っとくけど、俺は誰かさんと違って、大抵の所は届きます」
「ふうん」
「並んだら、有の顔視界に入らないかもな」
ははっと何処か乾いた笑い声をあげた彼の表情は、そっぽを向いていたせいで見えなかったけれど、何故だか歪んでいる気がした。声とも、口調とも違ってまるで歯噛みでもしてるような、そんな顔。
「何それ。じゃあ出てきて並んでみてよ」
ぱっと彼の方を振り返ってからふと気付く。そういえば、彼に部屋から出てくるように言ったのは初めてだ。いつどんな時訪ねても居る彼は、いつどんな時も部屋の中から出てくることはなかった。
振り返って見た零の表情は、何故だかやっぱり泣きそうに歪んでいて、私はまた彼にこの表情をさせてしまったのかと視線を彼から逸らし、地面へ落とす。
「ごめん、……それは、無理なんだ」
「……」
「俺、行けないんだ……」
何で、どうして、そう訊くことさえ憚る程に、零の声は震えていた。意地悪な時も、からかう時も、いつでも柔らかい 響きを持っていた零の声が、不安定な口笛みたいに震えていた。そんな彼に、私は小さく頷くことしかできなかった。何かを言おうとしたら、彼以上に声が震えてしまいそうだったから。彼の顔も見ることができずに、ただ小さく頷いた。
「ごめん」
そう落とすように謝る彼の声が、やっぱりいつものように直接耳に届き、そして何度も何度も反響していた。
それから一週間、バイトが続いていたせいで零のもとへ行くことができなかった。数日空いてしまうことはあっても、これだけ会いに行っていないのは初めてだった。彼に久々に会いに行くのは少しだけ不安だった。ぎこちなさが残るのは嫌だった。喧嘩をしたわけではないから、最初にどんな顔をすればいいのか、何て言えばいいのか判らない。
こつ、こつ、いつもより控えめにノックをしてみる。すぐに開く筈の窓が動かない。音が小さくて、気付かなかったのかもしれない、なんて自分に言い訳をして、もう一度、窓を叩こうと腕を上げた時、いつも通り音も気配も無くカラリと窓は開いた。
「久しぶり。あれ、縮んだ?」
いつも通りに出てきた零は、いつも通りに目尻を下げて笑って、いつも通りの意地の悪い言葉を降らせた。私は、また彼の優しさにれたのだ。取り繕うでもない、変に気を遣うでもない、自然体な彼の優しさに。何故か視界が一瞬ブレて、私はごめんも久しぶりも言えず、「ヒールがない靴だからだよ、馬鹿」だなんて可愛げも何もない、私のできる精一杯でいつも通りを装った台詞を吐いた。
「来てくれてありがとな」
そんな私に気付いているのか気付いていないのか、零はお決まりの言葉を、いつもよりもずっと静かで物柔らかな笑みでくれるから、目の前が一気にぼやけてきて、私はうんと頷く振りをして俯いた。
「そういや、今日は結んでるんだな」
俯いてしまったはいいが、顔を上げるタイミングを失っている私の頭に、ふわりと空気が緩く揺らぐ気配がする。それに思わず顔を上げると、彼が伸ばした手を引くのが目に映り、あぁ彼は私の髪に手を伸ばしていたのか、と遅まきながらに気付く。
「うん」
「雰囲気変わっていいな」
「そう、かな」
「うん。俺は好き」
そう呟くように零した彼の表情は、初めて目にするものだった。
「俺は好きだよ」
余りに優しすぎて、眩しすぎて、いっそ儚ささえ感じる程だった。
色んな処に詰め込まれて、仕舞う場処が無くなった、行き場のナイものが今にも溢れて、零れ出てきてしまいそうだった。膨れ過ぎたそれは、形にすることすらできなくて、それでもどうにかして、歪でも不安定でも今にも壊れそうでもいいから形にしなければと、妙に重たくて小刻みに震えて仕方のない腕を、いつに無く必死に伸ばした。いつものノックする時みたいな握った形ではなく、確固たる意志を持って開いた形の手を、私の前で隔たるように在る窓を超えて、その中へその先へ届くようにと。
きっと馬鹿みたいに泣き出しそうな顔をしていただろう私に、零までも何だか泣き出しそうな表情で、だけどそれを押し込めた笑顔で、私の腕が壁を超えるのを手伝うかのように、今度は髪ではなく、彼に向かって開かれている手へと腕を伸ばした。
初めて触れた零の手は、ぞくりとする程冷たかったけれど、彼の笑顔の熱はどきりとする程温かくて、心地良かった。
「へぇ、じゃあホントに初期からのペタルのファンだったんだ」
「そうなるかな。これはちょっと自慢」
「あははっ、自慢できるの狭い範囲だけじゃん。一番好きな曲は?」
「断然『アルナイ』」
どんな時よりも、強くはっきりとした声で彼は自信満々に笑った。それまでと何ら変わりのない、他愛のない会話。だけど、今はより時の流れがゆったりとしたものに感じる。互いに何も言わず、黙した時間を過ごすこともするようになったからだろう。そんな時の過ごし方でさえ、心地良いと感じているのだ。
「私も。『アルナイ』が一番好き」
「ジュリアのあの歌詞が、今は前以上に刺さるんだ」
「『好かれる自信も 愛する強さも 信じる勇気も ナイナイ尽くしの ダメダメ尽くしの 私だけど』?」
最初に思い浮かんだサビを呟くように歌ってみると、彼は眉根を下げた深遠な笑みを薄く浮かべ、視線を私から外して遠くへ遣って、私の歌った続きを口笛で奏でた。初めに私を導いた、あの妙なる音が空へと昇るように高く響く。
「そういえば、零が歌うのって聴いたことないね」
「俺、歌うの凄ぇ下手なんだ。だから口笛」
「そっか」
少し拗ねたように言う零に小さく笑みを零しつつ、彼の音の向かう空を見上げた。夢の続きを見るように、後ろでは零が口笛を再び吹き始めた。彼と私を繋ぐ曲、『アルナイ』を、歌の中の彼らが幸せを見つけて、曲が終焉を迎えるまで。