アルナイ
歯切れの悪い答えを返した声から、本当に退っ引きならない理由があったのだろう、少しはしゃぎすぎてしまったらしい自分が恥ずかしくなる。そんな歯切れの悪さを掻き消すように、彼は口を開いた。
「なぁ、アンタ、名前は?」
「名前? 有るって字で有。男の子みたいでしょ」
夢も未来も希望も愛も優しさも全部有りますように、なんて欲張り且つ適当とも言える名前。男の子と勘違い、なんてのはもう回数を数えるのも馬鹿らしいくらいだ。自分が名乗ってからふと気付く。耳に直接届くような声のせいで、電話で話してるような感覚に陥りつつあったが、私は部屋の主であろう青年と、屋外と屋内という形ではあるけれど、一応面と向かって話しているはずなのに、その相手の姿も顔もまだ目にしていないのだ。
「貴方は?」
「俺はゼロって書いて零。女みたい、だろ」
くすくすと悪戯っ子のような笑い声を零しながら、彼は私の言葉をもじって名乗り、半分程開いていた窓をカラリと軽い音をさせて開くと、ひょいと顔を出した。ぱさっと長めの前髪が目元にかかる。名前の響きと違って、穏やかそうで柔らかい印象の顔立ちだ。一癖ありそうに少しだけ吊り上がった目元は名前のイメージ通りかもしれないが。だが、彼はその口調や今までのほんの短いやり取りから感じた印象とは異なり、息を呑んでしまう程に儚く、存在を稀薄に感じさせた。更に、私と会話していた時、彼は部屋の中のどの辺りに居たのかは判らないが、おかしなことに、窓際に寄る音も窓に手を掛ける音も全くしなかった。したのは、窓が開く時のサッシがレールを移動する音だけ。口笛や漏らした声は聞こえたのに。彼には、私がこれまで会った人たちとは違う何かが有るような気がした。
「なぁ、有」
「いきなり呼び捨て?」
「有って呼び易くていいじゃん。有ちゃん、とかよりも有って感じ」
「それで何?」
「また此処に来ないか? 折角会えた貴重な仲間だしさ」
ピィッとワンフレーズ、彼のお気に入りらしい『アルナイ』を吹いて、にっと笑った。先程、表情までを予想して使った悪戯っ子という表現は、的を射ていたようだ。彼、零の笑顔は、悪戯っ子のようでもあり、とても人懐っこい、愛嬌のあるものだった。
黒猫が齎した、有り得ナイような私と彼の奇妙な出会いだった。
それから私は、毎日とはいかなくても時間があれば、帰りに零のもとへ寄るようになった。元々一人暮らしで帰っても誰もいないから、少しでも一人で居る時間が減るのは嬉しいことでもあった。そして何よりも、あのほんの短い間ではあったけれど、彼と話す時間は楽しいと感じたし、最後に来ないかと言って笑った、零の人好きのする笑顔に、私はどうやら少なからず惹かれている節があるらしかった。
コツコツ、閉められている部屋の窓を軽くノックするように叩くのが、零を呼ぶ合図だ。どういうわけか、彼はいつだってすぐに出てきた。平均よりも背の低い私は、いつも腕を伸ばしてノックしていた。その様子を一度零に見られた時、彼は目にするや否や思い切り噴き出した。ノックしようと腕を伸ばした時に、彼が窓を開いたのだ。本人曰く「何となく来た気がしたから」とのことだが。思い切り噴き出しておいて、「でも、女の子は小さい方が可愛くていいじゃん」だなんて、少しもフォローになりやしないことをのたまった。だけどその時の、猫を思わせる吊り上がり気味の目が細くなり、目尻が下がるような零の笑い方が、暫く瞼から離れなかった。
「アレ? 有は何処だ」
「…零」
「ははっ。そろそろこれも飽きるか。よ、今日も来たか」
「最初から楽しくないっての。それに今日も来たか、って昨日“また明日な”って勝手に来ることにしてくれたのは誰でしたっけ?」
「さァてな。俺には判んないね」
何度も話すようになって判ったことだけど、柔らかい声と吊り上がった目を長めの前髪が隠しているおかげで、穏やかで優しげな顔立ちに見える彼だが、その実、意外に意地の悪いところが多かったりする。窓を開けて態ときょろきょろして「何処だ? あ、悪い、見えなかった」なんて毎度恒例になりつつある。
「でも、ありがとな、有」
だけど、その後にいつも言う、よく見る悪戯っぽいものではない、本当に優しい目をした笑顔付きのこの言葉に、どんなに文句を言おうとしていても、毎回あっさりと毒気を抜かれてしまうのだった。
零とはいつも他愛のナイ話ばかりをしている。私がその日あった出来事を話したり、バイトのことを愚痴ったり、ペタルの話をしたり。零の口笛を聴くこともしばしばあった。
「有はさ、髪伸ばしたりしないの?」
「髪?」
彼が私の髪を指差して言う。今は丁度肩ぐらいの長さで、確かに長いとは言えない。だけど、手入れも楽だし、邪魔にもならないから、最近暫くはこのぐらいの長さだ。
「うん。長いの、に……、あ」
彼が何か言葉を続けようとした時、ジャリッと路地の入口辺りで足音がした。彼は言葉を切って、さっと身を部屋へと引き入れた。私は携帯を取り出し耳に当て、路地の入口に背を向ける。足音の主はこちらへと近付いて、恐らく私を怪訝そうに一瞥しただろう後、そのままアパートへと入って行った。此処の住人だ。
時折、アパートの住人らしい学生が通ると、彼は何故か窓から出していた頭を部屋に引っ込めてしまうため、仕方無く私は怪しまれないように、携帯を耳に当てて電話をしていた振りをするのだった。
「何で誰か入ってくと引っ込んじゃうの」
「え、いや……俺、近所付き合い下手で、さ……」
携帯をカバンにしまいながら、いい加減この大根にも程がある、嘘くさい振りをどうにかしたくて、彼を見遣って訊ねると、普段ならば冗談っぽく笑うだろう彼は、何故だか酷く居心地悪そうに口籠った後、誤魔化すように笑って答えた。それは、とても合わせて笑顔を返せるような表情ではない、下手な誤魔化し方だった。その何となく息苦しそうにさえ見える様子は、先月のライブに行ったかどうかを訊ねた時の様相を彷彿させた。
「そう、いえばさっ、零は髪の長い子が好きなの?」
「え、そういうわけじゃないけど」
話題を切り替えようと、変に大きくなった私の声は、零と同じくらい下手な誤魔化し方だった。
「でも、さっき伸ばさないのって言ったじゃん」
「それは、俺がポニーテールが好きだから」
「何それ」
ぷっと噴き出すと、彼もつられるように声をあげて笑った。長めの前髪がさらりと踊る。彼の髪は細いみたいで、些細な動きでもそれに合わせるようにさらさらと揺れた。きっと、彼は私が変に気を遣ったことに気付いて、私の下手くそな誤魔化しに乗ってくれたんだろう。意地悪で、人の言葉尻をすぐ皮肉っぽくもじったりするクセに、唐突に零は優しい。
「それに、有に似合うと思ったから」
でも、不意打ちはズルイ。