アルナイ
アルナイ
# 今日の予定は 寝てるだけ
やりたいことは 何にもナイ
何かをやろうとしてみてもね
アレアレ どうして こうなるの?
ホラ 私にできることなんて ナイナイナイ
好かれる自信も 愛せる強さも 信じる勇気も
ナイナイ尽くしの ダメダメ尽くしの 私だけど
欲しくて欲しくて 喉から手が出る 望みだけはアルの
君を追い掛けた
黒猫が、口笛のような鳴き声をあげて私の前を横切って行った。
今日は好きなアーティストのアルバムの発売日。ペタルという名で活動している彼らはそれほど有名ではないため、発売となるといつも事前に予約をして取り寄せておかなければならない。現在、空はなかなか芸術的なグラデーションで夕暮れ色に染まっている。今からならば、確実に発売日である今日のうちに入手できるだろう。帰宅する足取りが、自然と軽くなってくる。
一人暮らしをしているため大学へは比較的近く、毎日徒歩で通っている。自宅と大学の間にあるやや傾斜のきつい坂道は、ヒールの高いパンプスやブーツで挑むには、なかなかに手強い敵である。この坂道のふもとに位置する辺りに、少し大きめの交差点がある。坂を下って一息吐く此処で、長い信号をぼんやりと待ちながら、広くもない空を眺めたり、昼間の明るさを覆い隠していくような夕陽に目を向けたりするのが、私の日課だった。
カツッカツッと、下り道のせいで変に力の籠るパンプスのヒールを高く響かせながら、それでも逸る気持ちにつられるように早足になって、いつものように坂を下る。気持ちにつられたのは足だけではなかったようで、頭の中で彼らの曲が流れ始める。曲のリズムに合わせて、ぱさぱさと肩の辺りで髪が揺れる。夕日の紅と髪の茶が混ざって、綺麗な色合いが視界の端で踊る。
(あ、今度こんな色に染めてみようかな)
普段は長く感じる坂道も、今日は少しだけ早く信号まで着いた気がする。生憎、信号は着いた瞬間に赤に変わってしまったけれど、待つ時間も苦にはならない。一旦いつものように空へやった目を、何の気なしに足元に落とすと、黒猫が茂みを潜ってアパートの中へ入って行くのが見えた。この交差点の角に建つ、深緑の屋根に白い壁のアパート。小さいけれど、洒落た造りのそこは確か学生アパートだった。道路に面する方は北に当たるためか、入口は交差点より一本手前にある路地側にあったはずだ。同じ大学の人も恐らく住んでいるだろう。
黒猫が侵入していった其処を見つめていると、一瞬車の流れが途切れ、辺りを不自然なまでの静けさが支配した。世界が止まっているような静寂。その時、何かが耳を掠めた。普通なら聞き落としてしまいそうなくらい、微かな微かな音。形にすらなっていないように思える音の断片を、耳が捉える。その欠片を集中して集めてみると、それは一つの旋律となっていた。いつの間にか信号は変わり、世界は動き始め、人も車も流れ始めたのにも関わらず、私の世界だけは止まったまま、静かに、しかし確かに耳に届く旋律に囚われている。日常的な騒音に消されてしまいそうな大きさだったソレは、今や存在をはっきりと主張し、しっかりと耳に届いている。
(これは、口笛……?)
その音の正体は口笛だった。しかし、こんなにも響く口笛を私は聴いたことがなかった。耳も意識も、何処までも飛んで往けるかのような軽さを感じるのに、どんな障害物にも負けないかのような堅い芯を持った不思議な旋律を、知らずにうちに追い掛けていた。まるで、手招きでもして誰かを呼んでいるようなソレを追って、私はその音の聴こえてくる方、一本戻った路地へと入って行った。
路地に入ってから、普通なら誰かに届く前に拡散してしまうであろうちっぽけな音を、何故私の耳は受け取ったのか、何故私は気になって仕方が無いのかに気付いた。この音は、この旋律は、この曲は、ペタルの曲だ。自分の知っているもの、好きであり、たった今思い浮かべていたものだから、恐らく無意識のうちに捉えてしまったのだろう。ゆっくりと歩を進めていくと、アパートの入り口側が見えてくる。時々息を継いでいるのか、一拍止まっては紡がれる音の流れに耳を澄ませ、出所を探る。
(此処だ)
やはり音はこのアパートから聴こえているものだ。正確には、路地を奥に向かった方の角部屋からだ。先程からの様子だと、曲はもう終盤にかかっている。終わってしまう。ペタルの曲はいつだってどの曲でもすぐに判るのに、曲も歌詞までも簡単に思い浮かべることはできるのに、どうしてかタイトルだけがどうしても思い出せない。彼らの曲の中でも群を抜いて好きな曲なのに。頭の中で、口笛の旋律に合わせて、歌詞を流しながら辿り着いた一階の角の部屋の前。大きめに作られた窓が、半分程開いている。
「『アルナイ』だ」
「えっ」
「え?」
窓の前に立った瞬間、不意に思い出したタイトルを呟くと、目の前の部屋から声が降ってきた。まさか聞こえているとも反応を返されるとも思っていなかったので、間抜けにも窓の中の誰かと全く同じ言葉を発してしまった。
「アンタ、何て言った」
どうしたものだろうか、どくどくと無駄に心臓を働かせていると、そんなことは露知らず、相手は低い声で問い掛けてきた。男の声だった。先程まで響いていた音が止んでいる。どうやら口笛の主はこの部屋の住人である男らしい。
「『アルナイ』って。口笛で吹いてるのが聴こえたから」
「……アンタ、聴こえてたのか」
低い声が更に低まり、相手の男が訝しんでいる様子が手に取るように判る。
「さっき交差点で丁度静かになったから」
「俺の声も聞こえてるんだよな」
「当たり前でしょ。今話してるんだから」
何なんだろうか。聞こえるか聞こえないかがそんなに重要なことなのだろうか。聞いてはいけなかったものなのだろうか。しかし口笛も声も、別に聞こうと思って耳にしてしまったわけではないのだから、何か文句をつけられる筋合いはない。そんな、男の問いよりも、不思議なのは彼の声であった。聞く限り、自分とそう大して変わらないであろう青年の、柔らかい響きを持つ声。その声は部屋で発されている筈なのに、まるで同じ空間にいるかのようにすぐ近くで聞いているように感じる。いや、これは近くというよりも耳に直接届いているみたいだ。
「そうか。それより、アンタ『アルナイ』を知ってるのか」
「知ってるも何も、ペタルはインディーズの時からのファン」
「へェ、そりゃ珍しいな。ファンですら殆ど会わないのに」
「それじゃ、貴方も?」
「インディーズの時からの、な」
驚いた。ペタルはメジャーデビューこそしているものの、一般的なアーティストにはまだ遠いので、ファンは愚か知っている人ですら貴重な存在と言えるのだ。私の周りでさえ、私が聴かせて好きになってくれた子がいる程度である。そんな彼らを、私同様インディーズから好きでいる人と会えるなんて思ってもおらず、柄にもなく興奮してしまう。
「ならライブで会ってるかもしれないんだ。この前の、先月のライブには行った?」
「あー……いや、先月は、……どうにもならない理由で行けなかった」
「そう……。それは、……残念だったね」
# 今日の予定は 寝てるだけ
やりたいことは 何にもナイ
何かをやろうとしてみてもね
アレアレ どうして こうなるの?
ホラ 私にできることなんて ナイナイナイ
好かれる自信も 愛せる強さも 信じる勇気も
ナイナイ尽くしの ダメダメ尽くしの 私だけど
欲しくて欲しくて 喉から手が出る 望みだけはアルの
君を追い掛けた
黒猫が、口笛のような鳴き声をあげて私の前を横切って行った。
今日は好きなアーティストのアルバムの発売日。ペタルという名で活動している彼らはそれほど有名ではないため、発売となるといつも事前に予約をして取り寄せておかなければならない。現在、空はなかなか芸術的なグラデーションで夕暮れ色に染まっている。今からならば、確実に発売日である今日のうちに入手できるだろう。帰宅する足取りが、自然と軽くなってくる。
一人暮らしをしているため大学へは比較的近く、毎日徒歩で通っている。自宅と大学の間にあるやや傾斜のきつい坂道は、ヒールの高いパンプスやブーツで挑むには、なかなかに手強い敵である。この坂道のふもとに位置する辺りに、少し大きめの交差点がある。坂を下って一息吐く此処で、長い信号をぼんやりと待ちながら、広くもない空を眺めたり、昼間の明るさを覆い隠していくような夕陽に目を向けたりするのが、私の日課だった。
カツッカツッと、下り道のせいで変に力の籠るパンプスのヒールを高く響かせながら、それでも逸る気持ちにつられるように早足になって、いつものように坂を下る。気持ちにつられたのは足だけではなかったようで、頭の中で彼らの曲が流れ始める。曲のリズムに合わせて、ぱさぱさと肩の辺りで髪が揺れる。夕日の紅と髪の茶が混ざって、綺麗な色合いが視界の端で踊る。
(あ、今度こんな色に染めてみようかな)
普段は長く感じる坂道も、今日は少しだけ早く信号まで着いた気がする。生憎、信号は着いた瞬間に赤に変わってしまったけれど、待つ時間も苦にはならない。一旦いつものように空へやった目を、何の気なしに足元に落とすと、黒猫が茂みを潜ってアパートの中へ入って行くのが見えた。この交差点の角に建つ、深緑の屋根に白い壁のアパート。小さいけれど、洒落た造りのそこは確か学生アパートだった。道路に面する方は北に当たるためか、入口は交差点より一本手前にある路地側にあったはずだ。同じ大学の人も恐らく住んでいるだろう。
黒猫が侵入していった其処を見つめていると、一瞬車の流れが途切れ、辺りを不自然なまでの静けさが支配した。世界が止まっているような静寂。その時、何かが耳を掠めた。普通なら聞き落としてしまいそうなくらい、微かな微かな音。形にすらなっていないように思える音の断片を、耳が捉える。その欠片を集中して集めてみると、それは一つの旋律となっていた。いつの間にか信号は変わり、世界は動き始め、人も車も流れ始めたのにも関わらず、私の世界だけは止まったまま、静かに、しかし確かに耳に届く旋律に囚われている。日常的な騒音に消されてしまいそうな大きさだったソレは、今や存在をはっきりと主張し、しっかりと耳に届いている。
(これは、口笛……?)
その音の正体は口笛だった。しかし、こんなにも響く口笛を私は聴いたことがなかった。耳も意識も、何処までも飛んで往けるかのような軽さを感じるのに、どんな障害物にも負けないかのような堅い芯を持った不思議な旋律を、知らずにうちに追い掛けていた。まるで、手招きでもして誰かを呼んでいるようなソレを追って、私はその音の聴こえてくる方、一本戻った路地へと入って行った。
路地に入ってから、普通なら誰かに届く前に拡散してしまうであろうちっぽけな音を、何故私の耳は受け取ったのか、何故私は気になって仕方が無いのかに気付いた。この音は、この旋律は、この曲は、ペタルの曲だ。自分の知っているもの、好きであり、たった今思い浮かべていたものだから、恐らく無意識のうちに捉えてしまったのだろう。ゆっくりと歩を進めていくと、アパートの入り口側が見えてくる。時々息を継いでいるのか、一拍止まっては紡がれる音の流れに耳を澄ませ、出所を探る。
(此処だ)
やはり音はこのアパートから聴こえているものだ。正確には、路地を奥に向かった方の角部屋からだ。先程からの様子だと、曲はもう終盤にかかっている。終わってしまう。ペタルの曲はいつだってどの曲でもすぐに判るのに、曲も歌詞までも簡単に思い浮かべることはできるのに、どうしてかタイトルだけがどうしても思い出せない。彼らの曲の中でも群を抜いて好きな曲なのに。頭の中で、口笛の旋律に合わせて、歌詞を流しながら辿り着いた一階の角の部屋の前。大きめに作られた窓が、半分程開いている。
「『アルナイ』だ」
「えっ」
「え?」
窓の前に立った瞬間、不意に思い出したタイトルを呟くと、目の前の部屋から声が降ってきた。まさか聞こえているとも反応を返されるとも思っていなかったので、間抜けにも窓の中の誰かと全く同じ言葉を発してしまった。
「アンタ、何て言った」
どうしたものだろうか、どくどくと無駄に心臓を働かせていると、そんなことは露知らず、相手は低い声で問い掛けてきた。男の声だった。先程まで響いていた音が止んでいる。どうやら口笛の主はこの部屋の住人である男らしい。
「『アルナイ』って。口笛で吹いてるのが聴こえたから」
「……アンタ、聴こえてたのか」
低い声が更に低まり、相手の男が訝しんでいる様子が手に取るように判る。
「さっき交差点で丁度静かになったから」
「俺の声も聞こえてるんだよな」
「当たり前でしょ。今話してるんだから」
何なんだろうか。聞こえるか聞こえないかがそんなに重要なことなのだろうか。聞いてはいけなかったものなのだろうか。しかし口笛も声も、別に聞こうと思って耳にしてしまったわけではないのだから、何か文句をつけられる筋合いはない。そんな、男の問いよりも、不思議なのは彼の声であった。聞く限り、自分とそう大して変わらないであろう青年の、柔らかい響きを持つ声。その声は部屋で発されている筈なのに、まるで同じ空間にいるかのようにすぐ近くで聞いているように感じる。いや、これは近くというよりも耳に直接届いているみたいだ。
「そうか。それより、アンタ『アルナイ』を知ってるのか」
「知ってるも何も、ペタルはインディーズの時からのファン」
「へェ、そりゃ珍しいな。ファンですら殆ど会わないのに」
「それじゃ、貴方も?」
「インディーズの時からの、な」
驚いた。ペタルはメジャーデビューこそしているものの、一般的なアーティストにはまだ遠いので、ファンは愚か知っている人ですら貴重な存在と言えるのだ。私の周りでさえ、私が聴かせて好きになってくれた子がいる程度である。そんな彼らを、私同様インディーズから好きでいる人と会えるなんて思ってもおらず、柄にもなく興奮してしまう。
「ならライブで会ってるかもしれないんだ。この前の、先月のライブには行った?」
「あー……いや、先月は、……どうにもならない理由で行けなかった」
「そう……。それは、……残念だったね」