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回想と抒情

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時間


大学を出たあと、私は郷里に帰り塾講師として働いていた。郷里は自然の風景が多分に残っている田舎町であり、私の家もまた自然に取り囲まれていた。朝、鳥たちの声と影を庭に認めながら、朝陽を浴びた庭木の輝きに緩やかに身を整える。雪が融け、凍った大気と光も徐々に融解していく中、間歇的に訪れる春に身をほどく。家の軒先と野原や果樹園にまばらながら花々が咲き始め、やがて花の嵐となる。そんな風に自然の時間は流れていき、私はその流れに身を委ねていた。一方で、午後からの塾での個人指導の流れもある。タイムカードを押して、生徒にあいさつして、勉強する内容を指示、答え合わせ、間違った部分を解説、そして次の生徒へ。労働は私の表面も内面も規律し、労働の時間の流れにも私は身を委ねていた。

そんな春のある日、本棚を整理していたら、学生時代に購入したカントの『純粋理性批判』ドイツ語原典を再び見出した。途端に、私の中に甘く苦しい感傷が流入してくるのがわかった。私は本来大学院に残って哲学の研究者になるのが夢だった。それは経済的な理由などにより諦めたのだけれど、その夢の挫折の傷口が急に開いてしまったのだ。私の中に流入したのは、何よりも私固有の時間だった。自然の時間や労働の時間によって覆い隠されていた私固有の時間が、夢の挫折という形でくっきりと、そのとき悠々たる流れを眼前に現したのだ。自然の時間の流れは、雄大で全方位的で極めて優しい。私はその流れに自分の卑小さを解消させていた。労働の時間の流れは、社会的で肯定的で極めてリズムが良い。私はその流れによって自分が承認されるのを快く思っていた。だが、自然と労働の流れに身を委ねているうち、私は自分固有の時間の流れを見失ってしまっていたのだ。それは沢山の屈折と傷と闇とねじれに彩られているもので、だからこそあえて見ないようにしていたのかもしれない。

私はいくつもの時間を生きている。他者との交わりの時間、自然に抱かれる時間、社会の仕組みに従う時間、余暇にふける時間。私はそれと同時に、私固有の何よりも強靭で鋭い時間を最も深く生きている。だがそれは、最も隠蔽されやすく、最も自明な時間でもある。自然の時間も労働の時間も、その発祥の基礎には私固有の時間がある。私は『純粋理性批判』を棚に戻すと、こみあげる涙を辛うじてこらえた。私固有の時間が、今これから白日の下に再び始まる。自然や労働の時間を織り直すように。

作品名:回想と抒情 作家名:Beamte