コタロウによろしく
8.
老人はパレット洗いを続けながら、悲しそうにも見える表情で薄く微笑むと、おもむろに作業の手を止めた。そして、居住まいを直すと覚悟を決めたような鋭い表情で健治に語り始めた。
「昨日、コタロウ君の絵を描いているときに、彼が君に言いたいことがあると話しかけてきた。ハートマークはそのときに見えた。いや、信じないならボケた老人の話と思って忘れてくれ。気を悪くしないでくれよ」
何を言ってるんだコイツ、とは思わなかった。額のハートマーク、足の斑点だけじゃなく、老人の絵の節々には、健治しか知り得ないコタロウの特徴が散りばめられていたからだ。それは技術的なものじゃない。なんとなくの雰囲気。コタロウを知る者でないと表現しようのない佇まいなのだ。
「信じますよ。信じます! だから、教えてほしいんです。コタロウが俺に何を言いたいのかを。おじいさん、わかるんですか!? だったら教えてください!」
老人はまた悲しそうにも見える表情で涼やかに微笑した。
そして静かに「その絵を貸してくれないか」と言った。
「絵を?」
「そう。コタロウ君の絵だ。君は知りたいのだろう? コタロウ君の思いを。ならその絵をちょっと渡してくれ。でも、彼が何を言っても、君は彼を愛すると誓えるかい?」
「俺はコタロウが好きだった。友達としてこれまでもずっと大切にしてきた。誓うまでもないことだけど、誓うよ」
老人はわかったと小さく頷くと、背後からもう一つ折りたたみ椅子を取り出し、絵の道具を置いた敷物を挟んで立つ健治に手渡した。健治がそれに座ると老人はコタロウが描かれた画用紙の下の二角を両手で持ち、向かいの健治に上の二角をつまむように言った。
「声は私の中で作られたイメージだが、その言葉はコタロウ君のものだ」
健治を鋭い目で見据えた老人がそう言った刹那――
バシュッと音がしたように感じた直後、健治の耳にさっきまで入ってきていた雑踏の音、露店で賑わう人々の話し声、木々の擦れ合う音、すべての雑音が一切消えた。
完全な静寂の中、自然と目をつむった健治の耳に小学生くらいの少年の声が語りかけてくる。実際音が聞こえているわけではない。でも、気持ちがすーっと入ってくるように、心が音を聞いた。
~なんだかわからないけど、お兄さんに会えなくなっちゃったよ。どうしてかな。
ずっとずっと会いたくて、一緒にいたくて、でも、できなくて、困ってたらおじいさんが教えてくれたの。もう会えないんだって。そうなんだと思ったら、キューンってなっちゃった。でも、おじいさんが昨日、明日はきっと話せるよって言ってくれたから、ボク、たくさん考えたんだ~
~最初はね、楽しかった水たまりの話。赤いブルルンに乗って、よく連れてってくれた大きな水たまりで、ちゃんと遊べなくてゴメンネ。
最後に行った日、ボク、一生懸命がんばったんだけど、最後は胸が苦しくなって、足も動かなくなっちゃったの。でも、ボールを取ってきたかったんだ、ホントだよ。取ってくるとお兄さん喜んでくれるから。
ボクが取れなくて、お兄さん機嫌が悪くなっちゃった。今度行ったときにはもっとたくさんバチャバチャしてゼッタイとるぞって思ったけど、あの日からあそこに連れてってもらえなくなっちゃって、ボクのせいだと思って……だからゴメンナサイ。許してくれるかなぁ……~
~ボクね、たまにお兄さんがキイロいのをゴクゴクしながら画が映る板を見て笑って、ずっと一緒にいてくれる時間が大好きだったんだ。ずっとずっと手で撫でてくれた。お兄さん、アリガトウ~
~テーブルの上にあったおまんじゅう、食べちゃって、ゴメンネ~
~赤いブルルンで行った中で、白い服を着た人と、ボクの仲間がいる場所はキライだったんだ。だっていつも痛いことするんだもの。だから、ボク、走っちゃったの。お兄さん、すごい勢いで追いかけてきてボク、どうなってるのかわからなくなっちゃって、もっと走っちゃったの。ゴメンナサイ~
~最後にピンクの木の下をたくさん散歩したとき、ボク、すごくうれしかったんだ。そのころお兄さんとぜんぜん遊べなくていつもハフハフしちゃってた。でも、遊んでくれて。アリガトウ~
突如ガクッと膝から落ちた健治は我に返った。目の前には絵を持ったあの老人が例の悲しそうな微笑みでこちらを見つめている。
健治の顔はもう、涙でグシャグシャだった。
コタロウ、おまえは何も悪くない。これ以上……、これ以上、謝らないでくれ……。
健治の頭の中で、忘れていた負の映像が一斉にフラッシュバックする。
☆ ☆ ☆
二日酔いで頭がガンガンする。どうしてあんなに飲んでしまったのか。でも、飲まずにはいられなかった。だからしょうがない。おお、コタロウ、俺を心配してくれているのかい。ありがとな。いや、しかし、頭が痛い。吐き気もするな。まだ酒が抜けきっていない。予定を変更して今日は一日中寝ていよう。悪いなコタロウ、散歩はできたら夕方行くから。午前はちょっと勘弁してくれ。
ああ〜、やっと一人になれたぁ〜。たまにはこうしてパチンコもいい。ゆっくり考え事ができるから。……仕事、辞めようかな。
「ハフッハフッ!」
「わかってる、わかってる。でも、コタロウ、今日は勘弁してくれよ。昨日、深夜まで仕事だったんだ。布団から出られないんだよ」
「クゥー…」
「もう少し仕事が落ち着いたら、ちゃんと時間作るからさ、今日はちょっと寝かせてくれよ」
「……」
「クゥーン、クゥーン……」
「こんな北風が強い日にわざわざ行くことないって。日を改めよう、な、コタロウ」
「ちょっと、それ、マジでやめて。今日はそういう気分じゃないんだ」
「ああもううるさいなぁ!」
ダダダダッ、バタン!!
☆ ☆ ☆
思い返した記憶に覆いかぶさるように、健治の脳が意思に反して想像する声を作りだす。さっき心に訴えてきた実体のない声で。
~お兄さん、ボク、悪いこと……したの? 嫌われちゃったのかな。また赤いブルルン、乗りたい。さみしいよ……~
澄んだ青空の下、多くの人が笑顔で行き交い賑わう露店。その一番奥の一角。似顔絵描きの画家の前で健治は嗚咽を漏らし、老人がくれたタオルに顔をうずめ、とめどない涙を流していた。健治の頭の中はまるでタイムスリップしたように、ある一つの明瞭な記憶に辿り着いていた。
三か月前、仕事で決定的なミスを犯してしまった健治は、同期や後輩の前で上司に叱責されたうえに、取引先からもそのミスを指摘され、相手の重役に吊るし上げられてしまった。全員が敵のような殺伐とした会社で健治を慰める者はなく、むしろ、健治のミスを喜んでいる姿がありありと窺えた。
健治は鬱憤を晴らすため夜の街に繰り出して、一晩中本来趣味ではないキャバクラで飲み明かした。