国民総奴隷化のひずみ
暴力教師も同じ。その裏には他のこともあったでしょうがそれも表には出しません、全部その教師が悪く、本人が責任をとれですし、市長は態度をがらっと変え、今まで肯定的だった体罰には触れず自分は悪くなく悪いのは委員会だ、だから直轄にするといい、彼のバックにその問題の組織すら見え隠れする。それを市民はそうだと見るし委員会は自分たちがムラを作り誰も責任取らない。彼は責任など取りません、もしそうであるならそのような発言はしません。
今のトヨタ初めMADE IN JAPANの商品がなぜ世界で認められましたでしょう?
私たちが小さいころの鉛筆は直ぐ折れていてそれはひどいものだったが今やシャープペンシルの芯にしてもその細さはじめ品質は素晴らしいものになりました。
それはたゆまざる技術革新、改善を行った成果だと思いますが、そもそも品質管理QCの取り組みは日本よりアメリカが早かったそうです。しかし品質がここまで良くなったのは日本であるのはなぜか?それは国民性によるものでしょうが、アメリカなどQC活動自体も仕事の一貫として仕事中に行わせたので普及できなかったが、日本は仕事後行った。当然残業代など請求もせずに。ここに違いがあり、加えて細かいところまで気が利く日本人気質が重なり今日の品質になったのだと思います。ホンダではそれを「わいがや」と呼んでいてその基本は「なんでかな?」です。すると教育であれ政治であれなんであれ、「なんで??」と思って不思議は無いはず。
教育評論家なる人がどの放送局にも顔をだし、同じコメントを言っています。それも本当でしょうか?ある意味そうかもしれないがある意味間違ってもいると私は考える。
教育委員会は独立性がないといけないのは先の大戦の反省からで、悪いのはそれを透明化せず責任逃れ他人の意見は聞かずムラを作ることなんです。原発もおなじ。そして全て現場に押し付け責任を逃れと既得権確保だけなんです。
一方組合は、これ同じく反対と物申し実は彼らも村を作り考えを変えられず責任も取らない。ただお互いに綱引きをするだけでこれもつまりは同じこと。現象は見ても本質を見ない。立場が違うだけで言っているのは同じ、第三者からすれば全く同じ構図に見えて仕方ない。国民は「なぜこんなことがおこるのだ?根本的な問題はなにか?」それを考えれば実に簡単なことで、考えることが出来ず全て情報に流され奴隷になっているのですが、それを認めるのが怖いのでしょう。怖いのは認めないことではなく認められないよう考えることが出来なくなったとこなんですよ。操作されているのですよ。
作品名:国民総奴隷化のひずみ 作家名:のすひろ