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石榴の月~愛され求められ奪われて~

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 その縁が果たして二人にとって良かったのかどうかは判らない。龍之助と松之助は拉致され、手籠めにされた末に身籠もった子であった。
 だが、嘉門とお民が奇しき縁の糸で結ばれていたことだけは確かであった。
 この時、お民は瞳に無言の想いを込めたつもりであった。
 たとえ終生、名乗ることがなくとも、龍之助と松之助は嘉門の血を分けた子なのだと。
―親子の名乗りを上げなくても、あの子たちは紛れもなく、あなたさまのお子にございます。
「そうか」
 嘉門は深く頷き、笑った。
 いつもの皮肉げな笑みではなく、晴れやかな笑顔だ。
「それならば、良かった」
 嘉門は満足げに頷いた。
「松之助と共に徳平店に帰れ。そなたの帰る場所は、あそこなのであろう?」
「はい」
 お民は小さいけれど、はっきりとした声で応えた。
「行くが良い。子は後で水戸部が連れてこよう」
 お民は礼を言い、立ち上がった、
 ふいに夜風が吹き込んできて、花の香りが強くなった。
 嘉門は再びお民に背を向けて花を眺めている。
「俺がこうしている間に、出ていってくれ」
 お民は嘉門に向かって、深々と頭を下げる。
 四季の花を描いた襖を開けようとしたまさにそのときだった。
「お民」
 嘉門に深い声音で呼ばれ、お民は振り向いた。
 嘉門もまた振り向き、こちらを見つめていた。端整な顔に微妙な翳りが落ちる。
 しかし、それはほんの一瞬のことで、嘉門はまなざしの底に出逢ったときから変わらぬ淋しげな光を宿し、ただひと言呟いた。
「―達者で暮らせ。俺はそなたのことを何があっても生涯忘れぬ」
 お民は微笑み、もう一度、嘉門に深く頭を下げた。
 部屋を出たお民は侍女に導かれ、玄関へと進んだ。式台には水戸部邦親が既に待ち受けており、水戸部の腕にはすやすやと眠る松之助が抱かれていた。
「水戸部さま、何から何まで本当にありがとうございました」
 お民が礼を述べると、水戸部は黙って首を振った。
「それがしが致したことは結局、何であったのでありましょうな。お家のため、殿のおんためと思い、致したことが龍之助君のご不幸をお招き致しただけにござりました。どうか、この水戸部をお恨み下され」
 お民は静かな声音で言った。
「水戸部さま。どうかもう、龍之助のことはお気になさらないで下さりませ。今となっては、これがあの子の御仏に定められた命であったのかもしれません」
「―」
 水戸部は何も言わず、頭を下げた。
 お民と松之助は石澤家が用意した駕籠に乗り、徳平店まで送り届けられた。
 長屋の木戸口が見える場所で駕籠を降り、お民は龍之助を抱いて駕籠から降りた。
 元来た道を戻ってゆく駕籠を見送り、お民はゆっくり歩き出す。
 見慣れた粗末な裏店の光景が何故か、無性に懐かしく感じられた。暮れ六ツ頃にここを出てから、いかほどの刻が流れたのだろう。
 実際に経った時間は短かったのか、それともお民が感じていただけ、途方もなく長かったのか。
 琥珀の月はまだ、天空に掛かっている。
 恐らく、お民が嘉門の屋敷にいたのは、ほんの数時間のものに違いない。
 木戸口を抜け、奥から三番目の家の前に立つ。
「お前さん」
 勢いよく腰高障子を開けると、愕いたような良人の顔があった。
「お民」
 お民は松之助を抱いたまま、源治の胸に飛び込んだ。
「お、おい。そんなに急に抱きついてきたら、松が潰れちまうじゃねえか」
 源治の慌てふためいた声が聞こえ、お民はいつもと変わらぬ良人の物言いに涙が出るほどの安堵を憶えたのだった。



 春のやわらかな風に薄紅色の花びらが一枚、どこからともなく運ばれてくる。
 お民は大きく前にせり出したお腹を労るように歩きながら、長屋へと急いでいた、当人はこれでも急いでいるつもりなのだが、流石に臨月ともなると、どんなに頑張っても早足というのはできない。
 捨て子稲荷の前まで歩いてきた時、小さな祠の前に人だかりができているのが見えた。
 人群れの中には、良人の源治もいる。
 大きな腹を抱えて歩いてくるお民を認め、源治がこちらに向かってきた。
「お前さん、どうかしたんですか?」
「捨て子だよ。可哀想になぁ、まだ生まれてせいぜいが二、三ヵ月といったところらしい」
 源治が嘆息すると、お民が肩をすくめた。
「うちで育ててやることができたら良いんですけどねぇ」
「馬鹿言え。そりゃア、俺だって何とかはしてやりてえけど、うちだって、これで四人目だぜ? 流石に今、これ以上ガキが増えたら、一家で心中でもしなきゃならねえ羽目になっちまう」
 あまりゾッとしない冗談を言う良人を軽く睨んでから、お民は頷いた。
「そうですね」
 今月中には四人目の子が生まれる。
 お民は今も花ふくに勤めているが、産み月に入ってからは、しばらく休みを取っていた。
 龍之助が亡くなり、続いて松之助までもが攫われるという事件から三年、お民と源治の間には年子で男女二人の子を授かった。更に、お民のお腹には三年続けて身籠もった四人目の子が宿っている。
 松之助もつつがなく成長し、今年、五歳になった。
 長屋の連中は、
―源さんもまぁ、よくやるねえ。
 と、一年中大きな腹を抱えているお民を見ては、源治を冷やかしてばかりいる。
 捨て子稲荷の側に一本だけ植わった桜の樹は今、ちらほらと花をつけており、風が吹くと、その花びらがひらひらと宙に舞う。
 そのひとひらがお民の黒髪に止まった。
 源治がそっと桜貝のような花びらを指で掬う。
「ちっちぇもんだな」
 源治は透き通る小さな花びらを陽にかざし、呟いた。
 春の光に、花片が細かく震え、光を弾く。
「本当に」
 お民が頷いた時、また、風が吹いた。
 桜の花びらが一斉に舞い上がる。
 無数の花びらは、天へと還っていった大切な人たちへの手紙のよう。
 お民は空の彼方にいるはずの亡くなった人たちに想いを馳せる。
 兵助、兵太、龍之助、それに、半年ほど前に亡くなったという石澤嘉門。
 それぞれの人のありし日の顔が一瞬、甦る。
 舞い上がった花びらたちは、まるで願いを託した千羽鶴のように蒼い春の空へと高く舞い上がり、吸い込まれて見えなくなった。
―このささやかな幸せがいつまでも続きますように。
 ひそかに願いを込める。
 お民は、眩しい光に眼を細めながら、いつまでも花びらが消えた空の高みを見つめていた。
  
         
                 【完】