石榴の月~愛され求められ奪われて~
その時、初めて嘉門の顔色がただならぬ悪さであることに気付いた。枕許の行灯の火影が嘉門の整った面を照らしている。
しかし、その顔は行灯のほのかな灯りでも、赤黒く、眼は黄色っぽく変色しているのが判った。
「あまりに酒量が過ぎては、お身体に触ります」
よくよく注意して見れば、嘉門の指先は小刻みに震えている。これは酒が切れたときに見せる禁断症状の一つ、つまり嘉門はそれだけ酒に依存し、溺れているという証でもある。
ここまで酒浸りになっているとは、想像だにしていなかった。
お民が言葉を失っていると、嘉門が口の端を引き上げた。
「そなたは阿呆か? 一体どこまでお人好しなのだ。嫌いな男に、身体の心配も何もないであろうに。やっと恋しい亭主の許に戻れたそなたを俺はまたしても卑劣な手段で取り戻そうとしているのだぞ?」
少しの沈黙の後、フッと笑う。
暗い眼にやや光が戻っていた。
「ま、それがそなたらしいといえば、そなたらしいところだがな」
「殿」
お民は実に久しぶりに嘉門をそう呼んだ。
「私は人と人の出逢いは皆、御仏から与えられた縁(えにし)だと思うておりまする。縁の糸と糸が絡み合い、人は出逢うのだと。されば、殿とお逢いしたのも何かの縁であったのでございましょう。それが良かったのかどうかは私には判りませぬが、縁(えん)あってめぐり逢った方であれば、その人がみすみす不幸になるのを願いはしませぬ」
お民の思いがけない言葉に、嘉門の切れ長の瞳がふと深い光を帯びる。
「お民、そなたは俺の不幸を願わぬというか? そなたをこれまでさんざん追いつめ、苦しめてきたこの俺が病になれば、良い気味だ、それこそ仏罰だと思いはせぬのか」
嘉門の問いに、お民はゆっくりと首を振った。
「私は殿のご不幸を願うたことなど一度もございませぬし、殿が哀しまれるお姿を見たいとも思いませぬ」
それは本心からの言葉であった。
嘉門を憎んだことがないと言えば、嘘になろう。元々、嘉門との出逢いからして、けして好意を抱けるようなものではなく、その後も嘉門は卑怯な方法で何度もお民を拘束し、その身体を思うがままに犯したのだ。
出合茶屋に連れ込まれたときは、嘉門を簪で刺し殺そうとさえした。しかし、あれは、けして心底から男の死を望んで刃を向けたわけではない。あのときのお民は無我夢中だった。何としてでも嘉門の毒牙から逃れたい一心でしたことだった。
衝動的に身を守ろうとしたのだ。そこに、明確な殺意があるはずもなかった。
かといって、今でも、嘉門を許しているわけではない。
が、お民の気性からして、嘉門の不幸を願うということはあり得ない。あれほど憎んでいる祥月院でさえ、その死や不幸を願ったことはないのだ。
嘉門が立ち上がり、縁側に面した障子を開け放った。
花の香りを孕んだ風が夜風に乗って流れ込んでくる。
夜陰にほのかに浮かび上がる花は沈丁花だった。鳴戸屋の庭にあるのと同じものだ。
群がって咲く赤紫の花が月光に冴え冴えと光っていた。
嘉門はしばらく月明かりに照らされた花を眺めていたかと思うと、振り向いた。
「お民、俺は恐らくはもう長くはない」
お民が息を呑む。あまりにも衝撃的な事実だった。
「さぞ女々しき男だと思うだろうが、俺はそなたを手放してからというもの、酒浸りの日々を送っていた。その挙げ句がこの体たらくだ。我ながら馬鹿げているとは思うが、俺は、そなたなしでは生きてゆけなかった。その淋しさを紛らわせるために酒が必要だったのだ。養生すれば医者は二、三年は長らえるというが、寝たり起きたりの退屈な病人暮らしなんぞ真っ平でな。そなたを想いながら、潔く散るのも悪くはない」
「そんな―」
一瞬、言葉を失ってしまう。
もし嘉門の言うように彼が真にお民に惚れているというのならば、何という壮絶な愛し方だろう。
源治のように春の光が根雪を溶かすように、じっくりと相手の心が解(ほど)けるまで待つ―、そのような愛し方もあれば、自分の想いが届かなければ、いっそのこと相手をも巻き込んで共に灼き尽くしてしまうほどの烈しい愛。
もし源治が嘉門の立場であれば、たとえ惚れた相手が靡かずとも、女の幸せを思い、自ら身を退いて陰ながら見守る道を選ぶに相違ない。
どちらの愛し方が良いとはいえないけれど、お民には嘉門のような烈しい愛し方は到底理解できない。
それでも、嘉門の言葉に嘘がないことだけは、お民も理解できた。
恐らく、嘉門のお民を想う心は本物だ。
惚れている―というのも嘘ではないだろう。
だが、お民はその愛に応えることはできない。お民の心から愛する男は未来永劫変わることなく、源治ただ一人なのだから。
こんなにも烈しい愛をくれる男に、お民は何も返すことはできない。愛を得ることが叶わぬのであれば、潔く死んでゆこうと言う男に、一体何と言えば良いのだろう。
ただ、今一つだけ言えることは、お民は嘉門に死んで欲しくはない―、ただそれだけだった。このことは絶対に口にすることはできないけれど、嘉門は亡くなった龍之助、更に松之助の実の父親なのだ。
たとえ生涯、父子の名乗りをすることができなくても、二人の息子の父である嘉門には生きていて欲しいと思わずにはいられない。
お民の眼に涙が溢れ、頬をつたう。
「俺のために泣いてくれるのか」
嘉門は人さし指で、お民の白い頬を流れ落ちる涙の雫をぬぐい取る。
「もう十分だ。その涙を見ただけで、俺は十分だ。―何も思い残すことなく、逝ける」
いつだったか、同じことがあった。
初めて嘉門の側に上がった日、兵助との間に儲けた兵太のことを訊ねられたときのことだ。
―子は健やかに育っておるのか?
そう問われたお民は、泣きながら応えた。
―五つの歳に川に落ちて亡くなりました。
あのときも、嘉門はお民の頬をつたう涙をこうやって拭いてくれた。
時々は信じられないくらいに冷酷になるけれど、本当は優しくて―。
いつも、この世に独りきりになったかのような、傷ついて哀しい瞳を見せる。
そう、お民は嘉門を本当は心根の優しい男なのではないかと思っている。
見かけどおりの情け容赦ない表の顔の下に、まるで傷つきやすい小動物のような繊細な心を、子どものように頼りなげな素顔を隠し持っているのではないか、と。その素顔を隠し通すために、わざと冷徹なふりを装っているのでは、と―。
だから、この男を心から憎みきれない。もちろん、好きだとか惚れているとかいうのとは全く違うけれど。
「最後に一つだけ、教えてはくれぬか」
嘉門の問いに、お民は眼を見開く。
「俺は、そなたを不幸にしただけの男なのか?」
この男の漆黒の瞳は、いつも奥底に静かで深い哀しみを湛えている。
お民は嘉門の黒い瞳を真っすぐに見つめ返す。
「―いいえ。殿との出逢いがなければ、龍之助と松之助を授かることもありませんでした」
恐らく、お民は最初から嘉門の子を宿し、生む宿命をその身に負うていたのだろう。二人の縁(えにし)の糸は今日、この瞬間まで途切れることなく続いていたに違いない。
作品名:石榴の月~愛され求められ奪われて~ 作家名:東 めぐみ