図書室の夢
『秋』
残暑が厳しい秋がやってきた。体に感じる外の空気はなかなか冷めず、このままでは秋の涼しい風を感じることなく、冬が直接来てしまいそうな勢いだ。今のところ秋の到来を告げてくれているのは、紅葉と、野球部の掛け声が消えたグラウンドと、昼過ぎには暗くなっている図書室くらいだった。
さて、僕は未だに英語という高い壁を越えられずにいる。が、大体半分くらいは、制覇したと言えるだろう。何せ、英語の定期試験の結果が前回より二十点近く上がったのだ。元が悪いとは言え、これは大きな進歩と言える。このままいけば、冬頃には、平均より一回り上の点数を取れるようになっていても不思議ではない。来年の受験やセンターに向けて極めて順調だ。
「すごいじゃないですか、努力の賜物ってやつですか」
向かいに座っている月島さんは胸のあたりでパンパンと手を小さく叩いた。珍しくこちらを向いていて、本も読んでいない。
「まあ、少しでも手を緩めたら駄目なんだけどね。しかも英語が上がった分、世界史以外のほかの教科は下がっちゃったし」
「受験と関係ないなら大丈夫なんじゃないですか? 評定に支障がでない程度で、ですが」
「わかってる」
ここまでくれば、もう一息だ。入試科目三つのうち、幸い国語は定期試験でもちゃんとした成績を保ち続けているし、日本史も英語ほどではないが徐々に点数も上がってきている。推薦は無理かもしれないが、一般受験なら可能性は十分にある。
「頑張ってくださいね」
彼女は僕を向いてそう言った。髪は春先の頃と大体同じくらいに戻っていて顔は、今までよりだいぶ柔らかい笑顔を見せていた。その笑顔は春先の頃と同じ、神秘的雰囲気を纏っている。だが僕は、どうしてもそんな笑顔を見ても、素直に喜ぶことが出来なかった。なぜだかその笑顔を見ても、無理をしているように見えてしまうからだ。理由は、彼女の進路希望だ。
「私は推薦を取ると思うので、一般受験はしませんけど」
「ああ、理工学部の推薦取れそうなんだ」
「評定は取れてますし、今回のテストもいい方でしたから、多分」
「そう……、あのさ」
「はい?」
「ひょっとして、人文学部に行きたいんじゃないの?」
僕がずっと、月島さんに訊きたかったことだ。理工学部の話を夏に聞いたとき、僕にはどうしても納得できなかった。確かに理系の人間で本が好きな人間なんて星の数ほどいるだろうが、放課後ほぼ毎日というのは流石普通じゃない。明らかに文系寄りの人間だ。邪推かもしれないが、ひょっとしたら、彼女は何らかの理由で無理をしてるんじゃないかと、そう思ったのだ。
「………」
月島さんは何も言葉を発さず、こちらを見ている。彼女の顔は怒っているのか、呆れているのか、悲しんでいるのか、どうとでも取れる。まさに仮面のような無表情だった。
「そうですよ」
悩んだような素振りを見せることなく、彼女は少し間を置いて、素っ気なく答えた。でも、声は震えていた。
「あなただから言いますけどね、私、本当は翻訳家になりたかったんですよ。
私の両親はプログラマーと電工技師で、その影響で私もすっかり理系になっちゃって。小学生の頃に、英語の勉強も兼ねて読み始めた洋書の和訳版に魅せられて本に興味を持ち始める頃には、自作のパソコン作れるくらいにはなってました。
大の本好きになってたと気づいたのは、中学くらいの頃でしたかね。その頃にはパソコン自体は嫌いじゃないけど、もう好きでもありませんでした。将来の夢がプログラマーから翻訳家に変わったのもその時です。
でも、私の将来を楽しみにしていた親の前でそんなのこと言えるわけないじゃないですか。楽しそうに本ばかり読んで、パソコンをいじらないわけにはいかないじゃないですか。
だから私、図書室に篭ることにしたんです。図書室なら、いくらでも本を読んでいられるから。
そして、あなたと出会った。私と違って、夢に邁進できているあなたと。だから私応援したくなったんですよ。手伝うんじゃなくて、応援。手伝ったら今みたいに、愚痴を言っちゃいそうだから。それに、今更国語勉強したって、一年じゃ推薦も一般受験も受かるわけないですしね」
これが、彼女の答えだった。
「……親のために諦めたってこと?」
「違いますよ、諦めたのは私です。親と話すのが怖かっただけです。打ち明けるのが怖かっただけです。そのたった一枚の壁を越えられなかった私が一番悪いんですよ」
月島さんは下を向いてしまった。その瞳にはうっすら涙が溜まっているようにも見えた。初めて、僕には彼女が普通の人間のように思えた。それと同時に、直感的に『失敗した』、というのも痛いほどわかった。でも、なんと声を掛ければいいのかわからない。小学生の頃から本にばかり向き合ってきた僕には、こんな時どう言えばいいのだろう。
「……まだ、間に合うんじゃないかな?」
喉から必死に絞り上げて出てきた言葉が、それだった。無責任過ぎるとも思うし、いくらなんでも現実で言うには気持ち悪い台詞だとも思ったが、今はもうこれ以外の言葉は思いつかなかった。
「本調査はまだ先だよね? 選択教科さえちゃんと取ってれば、来年の受験自体はできるだろうし、推薦もある。月島さんの両親だって、娘が本当に人文学部に行きたいってことをちゃんと言えばわかってくれるんじゃないかな?」
「……かも、しれませんね」
月島さんは顔を上げてくれた。幸い涙が流れているということはなかった。ある程度、この空気を緩和する程度には、今の言葉は効果があったらしい。でも、彼女の表情はまだ暗い。きっと心は泣いている。
「でも無理ですよ。私、国語は全然勉強してないから成績あまりよくないですし。今更上げ方なんてわかりませんよ」
「じゃあ、僕が国語を教えるさ」
月島さんの言葉に、僕は条件反射で答えてしまった。何故かは、明白だった。
泣かせてしまった友人を、放っておけなかったのだ。