図書室の夢
『冬』
今日、返って来た英語のテストの点数が、春先の頃に戻っていた。
北海道の、手足が凍てつくような辛い冬の到来と共に、僕の進路の目の前には暗雲と霧が掛かり始めていた。図書室は、たった一台の暖房では歯が立たないほどの冷たい空気が支配し、ただでさえ壊れそうな僕の心に多大なダメージを与えている。生まれて初めて、図書室に居たくないと感じていた。
英語の成績が戻った原因は、考えるまでもない。テスト期間中も月島さんに国語を教えていたからだ。月島さんに勉強を教えていた分、こちらの勉強時間が減るのだから、成績が下がるのは当然の結果だ。もちろん、月島さんを恨むようなことはしない。これは完全に僕の自業自得であるし、その分睡眠時間でもなんでも削って、勉強量を増やせばいいだけだったのだから。
「先生にも、お墨付きを貰いました」
僕は文庫本を読んでいる。その向かいにいる月島さんがいつも通り、僕の方に向かず淡々と言葉を発する。読んでいる本は、珍しくハードカバーではなく、僕と同じ文庫本だった。
「『ここまで成績が向上すれば、一般受験なら可能性は十分ある』そうです」
「そうか、それはよかった」
「何他人事みたいに言ってるんですか、あなたのおかげなんですよ」
「ん、いやまあ頑張ったのは月島さんなんだから」
「……それはどうも」
その一言の後、月島さんは何も言わずに本の世界に飛び込んでいった。髪は適当に短く切りそろえているだけのようだが、インクの様に黒い髪と、無表情ながらも、本の文章を大きな瞳で追う姿はまるで、全く別の世界の光景のようで、図書室の神秘的な雰囲気とはまた違った落ち着いたそれがあった。春先と変わらぬ姿がそこにあった。
彼女は親に本当のことを打ち明け、国語を猛勉強し、先生に頭を下げて、志望学部を理工学から人文学に変えた。
確かに人文学部に行けるだけの国語の学力を付けるために、僕は彼女に国語の勉強法や読解問題を教えたりはした。でもたった三ヶ月でここまで成績が跳ね上がるのは、はっきり言って普通じゃない。才能もあったのだろうが、それだけでない。彼女はそれだけの努力を僕の見ていないところでやり遂げたのだ。親に打ち明けるのも相当な勇気が必要だったろう。事実、彼女は十年近くそのことに縛られ続けてきたのだから。
僕にはやっぱり、彼女が自分と同じ人間のようには思えなかった。春先以上に彼女がひどく遠く感じられた。
「英語の成績落ちたんですか?」
「え?」
月島さんは、突然僕にそう問いかけてきた。しかも珍しくこちらを向いて。
顔はいつもと変わらない無表情だったが、どことなく真剣な雰囲気が伝わってくる。
「うーん、まあね。調子に乗って人に物を教えたからバチでも当たったんじゃないかな」
そこまで言って気づいた。これではまるで月島さんのせいで僕の成績が落ちたみたいじゃないか。もともと苦手ではあるが、ここでそんな簡単なことにも気を配れないくらい追い詰められている自分がいることに、思わず落胆した。
「そうですか」
だが、彼女はそんなことを気にも留めないようで、手元の洋書をカバンに仕舞うと、カバンを持って、僕の右隣に移動してきた。隣に座った彼女は、カバンを自分の左脇に置くと、カバンを漁って、ノートと参考書を取り出した。教科は、英語だ。
「えーと?」
「これでも、元理工学部志望なので、英語には自信があるんですよ」
突然隣に来たり、参考書見せられたり、戸惑う僕をよそに、彼女は取り出した参考書を僕の前に置き、ノートを自分の前に広げた。
「僕に英語教えてくれるってこと? いいの? 自分の勉強は?」
「ほら、早くノートと筆箱出してください」
急かされて、僕は急いで脇に置いてあるカバンから、言われた通りにノートと筆箱、英語の勉強道具一式を取り出す。
「あなたのおかげで国語はしばらく問題なさそうですし、それならあなたに恩返しの一つでもしようかなと思いまして」
僕がカバンの中の一式を取り出して机に広げ終えると、彼女はそう言って、僕の問題集を取ると、演習問題のページを開いて再び机の上に置く。
「それに、夢に向かって頑張る人、私は嫌いじゃないので」
秋の頃の僕のような、小説に出てくるような『クサい台詞』だったが、今の僕には何故か、一番かけて欲しかった言葉のように思えた。
「……ありがとう、月島さん」
「どういたしましてです」
僕は月島さんに導かれながら、英語の演習問題を解き始めた。