「舞台裏の仲間たち」 70~71
亀戸風景の油絵と出会って以来、画家への思いを絶ちがたくなった碌山は、
やがて相馬良の紹介で、彼女の母校・明治女学院の校長である
岩本善治を頼ってついに、夢にまで見た上京をはたします。
体調を崩して仙台の実家に戻っていた黒光も、迎えに来た相馬愛蔵とともに
一度は安曇野に戻ります。
しかしこちらも行く末を思案した挙句、明治34年の9月に
夫婦ともども再び上京を決意します。
碌山は、同じこの年に念願であったアメリカへの遊学に旅立ちます。
翌年の明治35年にはニューヨークの美術学校へ入学を果たしました。
さらにその翌年にはパリへも渡り、ヨーロッパの数多くの芸術品に接します。
自らの才能を磨くなかで、ロダンを知り大きな影響を受ける中で、
自らの進む方向を彫刻に求めるようになりました。
碌山の海外での芸術修業は、こうした経過を辿りながら
7年間にわたって続きます。
東京本郷に住まいを定めた相馬夫妻は、
二人で商売を始める事を決め、最初に思いついたのが西洋の
コーヒー店でした。
しかしすでに、同じようなお店が本郷に出来てしまったため、
このアイデアは立ち消えになってしまいます。
次に考えたのが、このころに、ようやく広まりをみせてきたパン屋です。
新聞に「パン店譲り受けたし」という三行広告を出して、この当時のお金で
700円で購入したお店が、現在の本郷東大正門前の「中村屋」です。
当時の様子を語るこんなエピソードが残っています。
「通信社から早速記者が見えて我々の談話を徴し、
書生のパン屋と題して大いに社会に紹介された。
この記事が出ると、今まで知らずにいた人も
『ははあ、中村屋はそういうパン屋か』とにわかに注意する。
大学や一高の学生さんで、わざわざのぞきにやって来るという物好きな方もあって、
妻もまだ年は若かったし、さすがに顔を赤くしていたことがあった。
そんな関係からだんだん学生さんに馴染が出来て、
一高の茶話会の菓子は、たいてい中村屋へ註文があり、
私の方でも学生さんには特別勉強をすることにしていた。」
これだけを読んでも、二人の始めた中村屋は
当時かなりの人気を呼んだパン屋さんだったことがわかります。
作品名:「舞台裏の仲間たち」 70~71 作家名:落合順平