それぞれの死
「だから、そこが面白いんじゃないか。生保の仕事はのめり込むか、嫌になるかのどちらかだ。俺はずっぽりとのめり込んだね。ケース(被保護者)の中には確かにあくどい奴もいる。嘘つきも多い。しかし、どんな人だってそれなりの理由があって、保護に転落しているんだ。まずは自分のケースを信じろ。それがケースワーカー(地区担当員)の出発点だ。そして何故、嘘をつかねばならないかを考えていくんだ」
高橋係長は熱く語った。周囲の課員たちは「また始まった」と言いたげな顔をして苦笑していた。
「はあ、そんなもんですか……」
「何しろ、この仕事の面白さはケースに心から感謝されることもあるというところだ。そりゃ、不満や文句を言われることも多いよ。だが、時には心から感謝されることがある。そこに喜びを見出せれば、この仕事は決して辛いものではない」
「感謝に対する喜びですか……」
栄太郎が頷いた。すると、赤い顔をした戸沢が「よう、新人、頑張れよ」とビールを注いでくれた。
「俺は先日、ダメ元で扶養照会を親族に出したんだがな、今まで父を探していたって泣いて喜ばれてなぁ。あの時は気持ちよかった。新人、お前にもきっとそういう時がくるぞ」
戸沢は呂律の回っていない口調で、そう言った。
「みんな、それなりに苦労はしているが、この仕事に遣り甲斐を見出していることは確かだ」
高橋係長は自信たっぷりに言った。
栄太郎は金色の泡を見つめると、一気に流し込んだ。
「だから、あんたじゃ話にならないんだよー!」
栄太郎が生活福祉課に配属されて一週間が過ぎようとしていた。幾度となくケースからそんな言葉を浴びせられただろう。だが、栄太郎は「お調べして、再度お返事します」と言って退けるまでになっていた。無論、高橋係長のサポートがあってこその話であるが……。まだまだ、栄太郎には理解不能な言葉や仕組みが生活保護の業務には存在していた。それでも、前に進まねばならない栄太郎であった。
そんな栄太郎でも、この仕事はつくづく「孤独」だと感じたものである。確かに高橋係長は的確なアドバイスをしてくれる。他の課員も時としては事務処理などを教えてくれた。だが、矢面に立たされるのはいつも栄太郎一人なのだ。「自分のケースのことは自分で処理しろ。責任は上が取る」と高橋係長は常々言っていた。その言葉を噛み締めながら、今日も家庭訪問に出掛ける栄太郎であった。
生活保護は最低生活を保障するとともに、自立の助長をその目的に掲げている。その目的のためにも定期的な家庭訪問を実施して個々の世帯の問題を把握することは必要不可欠なのだ。家庭訪問の頻度は問題が多ければ毎月となり、少なければ三ヶ月ないしは六ヶ月に一度となる。中には家庭訪問に拒否的な世帯もあったが、大多数が仕方なく受け入れてくれた。生活保護の地区担当員が財布の紐を握っていると思えば、家庭訪問を受け入れざるを得ないのが実情だ。
その日、栄太郎は矢口シズと高山真治という高齢のケースを訪問する予定だった。高山真治はいつも市役所の窓口で保護費を受け取っているのだが、今月は支給日に来なかった。支給日以降、電話連絡を取っているのだが、一向に繋がらない。安否確認を兼ねての家庭訪問であった。
栄太郎はまず、矢口シズのアパートへと公用車を走らせた。アパートの前に車を停めると、栄太郎は矢口シズの家の扉をノックした。呼び鈴はついていなかった。ノックをするが返事がなく、沈黙したままだ。栄太郎はもう一度ノックすると、「済みませーん。福祉事務所の北島です!」と大声で呼んだ。
すると、扉が少し開き、中から仏頂面をした老婆が顔を出した。
「ちょっと、あんた……。家の前で『福祉事務所』なんて言うんじゃないよ。それに市のマークを付けた車を前に堂々と置いて。これじゃあ、私が生活保護を受けているってことが周囲にバレるじゃないか。私にだってプライドがあるんだよ」
「あ、どうも済みません……」
栄太郎は心の中で「しまった!」と思った。高橋係長は「ケースは多かれ少なかれ、生活保護を受けていることにスティグマ(恥の意識)を感じている」と言っていた。そのスティグマを今、栄太郎は矢口シズに突きつけてしまったのだ。シズが怒るのも無理はないと思う栄太郎であった。
「どうも済みませんでした。お変わりはございませんか?」
「柳沢内科に定期的にかかっているよ。変わりはないね」
「あの、息子さんから連絡は……」
だが、矢口シズはそれには答えず、バタンと扉を閉めてしまった。
(あーあ、失敗したなぁ……)
栄太郎の心はしょげ返っていた。栄太郎は力なく、公用車のドアノブを引いた。一度の失敗でくよくよしていることは許されなかった。次には真治のところに行かねばならない。栄太郎は公用車のバックミラーで曲がったネクタイを直すと、勢い良くキーを回した。少し整備の悪い公用車はプスプス音を立てる。栄太郎はハンドルを切った。
高山真治の家はシズの家からも程近い。車で三分くらいの距離だろうか。古ぼけた平屋の一戸建てに住んでいた。栄太郎は同じ失敗を繰り返すまいと、高山真治の家から少し離れた空き地に車を停めた。
高山真治の家にも呼び鈴がない。玄関の扉をノックする。しかし、返答がなかった。幾度か扉をノックするが家の中は沈黙したままだ。
「居留守を見極めるには電気メーターを見ろ」
先輩の田所から栄太郎はそう教わっていたので、電気メーターのある家の裏側に回った。
電気メーターは勢い良く回っていた。ということは、今も高山真治の家の中でかなりの電気が使用されているということだ。栄太郎は慎重に、家の周囲を回った。すると、曇りガラスに大粒のハエがコツン、コツンと当たっている部屋があった。そして、魚が腐ったような腐敗臭が栄太郎の鼻先を掠めた。
「これは、もしかして……」
栄太郎は携帯電話を弄った。高橋係長の前に置かれている電話は内線電話ではなく、直通電話だった。ケースにはその番号を知らせてはいないが、栄太郎のような地区担当員や県の本庁など、ごく一部の関係者には知らされていた。栄太郎は携帯電話からそのホットラインに電話を掛ける。
高橋係長はすぐ電話に出た。栄太郎は電気メーターが勢い良く回っていること、曇りガラスに大粒のハエが当たっていること、そして、変な腐敗臭がすることを高橋係長に告げた。
「間違いないな。確実に死んでいる」
高橋係長はサラッと言って退けた。
「ど、どうすればいいんですか?」
「まず、大家と駐在に連絡を取れ。間違っても第一発見者にはなるんじゃないぞ。踏み込むのは警察の役目だ。大家には鍵を持ってきてもらえ。今から大家と駐在の電話番号を教えるから、すぐに連絡を取れ」
栄太郎はメモの用意をした。
駐在はすぐに来てくれた。駐在は曇りガラスに当たるハエと腐敗臭を嗅いで、「間違いないですね。この臭いは死んでいますね」と言った。大家は少し離れたところに済んでいて、二十分後くらいに鍵を持って現れた。駐在が鍵をもらって中へ踏み込んだ。栄太郎と大家は外で待機していた。
「うわー、こりゃ酷いなー!」
駐在の声が家の中から響いた。