Maria Magdalene
「今夜」
行くわ、と彼女は穏やかだった。昨夜完成させ得なかった靴を取りに行く、行ってあげる、彼女のその敗北じみた言葉に彼は唇を横に引いた。
「なに」
彼女の不満げな訴えに、いや、と彼は曖昧に否定したが、彼女のほうは彼を理解した。
「めぐ、あんたはいつもそうやって」
いつだってそうやってわたしを笑って。……
わからない、というふうに彼は彼女を見た。彼の隣人は美しかった。ゆるやかな髪の天辺からその慎ましい爪先まで、なめらかな曲線は彼を誘った。彼女はいつもそのようなつもりはなかったが、彼のそのような心算を知れば彼女は悦んだであろう。だが彼は彼女に伝えることはなかった。彼自身、自覚がなかったからである。だが、何とはなしに後ろ暗い気がするのだった。彼女はゆるく息を吐いた。
逃げたいのか、と彼は愉しげに彼女に尋ねた。そうねと彼女もまた愉しげに笑う。
「逃げて逃げて、めぐの手の届かないところに行きたいの」
「だがお前の脚は行けない」
彼は笑みを深めて断じた。彼女はそれで泣きたくなった。その通りだったからである。もはや彼女は抗うことはあっても拒むことはなかった。彼女の脚にはすでに枷があり、すなわち彼の造る靴は彼女の美しい枷であった。その腿からひざ、ふくらはぎ、足首は彼の手に馴染んでしまっていた。彼に触れられると感じるだけで彼女は悦んでしまうのであった。りさ、と彼は彼女を呼ぶ、そうやっていつも彼女のすべてを彼に縛り、捕らえていた。
「おまえのその脚、かかとから爪先に至るまでの、そのすべてはおれのものだろう」
「分かって訊くところがいやらしい」
なお愉快そうに眼を細める彼の言葉は正しかった。彼女は彼に彼女のその白くやわらかな二本の脚を与え、そのことを許していた。彼女は時折その事実に哀しくなるのだった。真実、彼女は与える見返りを欲していた、靴ではなく、もっと別のものを。だが靴それ自体が彼自身でもあったのだ。であるからこそ彼女は彼をずるいと想う。彼女はその脚のすべてを彼に与えた。裸足で逃げることももはや叶わなかった。
「どこへ行っても、お前はおれの靴しか履けない」
「そう、そんなふうにめぐがしたのね」
あんたのせいよ、めぐのその手がわるいのだ、と彼女は言い、めぐが靴を造るのだからいけないのだ、と繰り返して言った。
「そしてわたしはいつまでもめぐの傍を離れることができない」
彼は怒るでもなく穏やかに苦笑したままだった。そして愚かなことを、というふうに、離れる必要などどこにもないじゃないか、と言った。「りさ、お前が与えてくれるもののおかげでおれはひどく幸せだ」
だが彼はその事実を時折疑っている。真実、彼の欲望は満たされているはずなのに、彼の意識は逸れるときがあるのだ、つまり彼女の腰の細さや、肩や首の華奢な感じ、艶やかな唇や淡く色づいた頬に。なにより、彼女のかすかな哀憐を含む表情は彼の深淵を焦らすように揺さぶるのだった。そして唐突に昨夜のことを思い出した。彼女も昨夜を想った。彼は起き上がろうとして、重いと感じた身体に力を入れた。睡眠は脳には充分だったはずだが、身体にはいまだ休息が必要であったらしかった。だが彼は身体を起こし、彼女に近づいた。すると彼女はほんの少し彼から離れた。彼女はその上半身の肢体を、彼の膝の立てたのに寄りかかるようにして預けた。同時に彼の意思が通じたように、彼女はその白のむき出しの脚を持ち上げ、寝台のうえ、彼の傍に差し出した。ふたりの重心が移動して寝台は軋んだ。彼は玩具を手に入れた子どものように瞳の奥を輝かせ、その手で彼女の脚を、ふくらはぎから足首、踵にかけて、ゆったりと撫ぜた。めぐ、と彼女は彼を呼んだ。頬の色づきと伏せられたまつげの揺れるのがまさに彼を誘っていた。
「だからあんたが嫌いよ」
彼には彼女の感情が理解されず、彼女には彼の意識の揺らぎを捉える事が出来なかった。
作品名:Maria Magdalene 作家名:藤中ふみ